ゆる歴散歩♪



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阿仏尼を訪ねて鎌倉



今日はなぜ鎌倉に冷泉家?
冷泉為相(冷泉家の祖)のお母さん
阿仏尼を訪ね歩きました〜^^
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ここはからやってきた阿仏尼が住んだと言われている場所です。
阿仏尼はあの小倉百人一首の選者
藤原定家の子、
為家の晩年の妻。
その子供が冷泉為相です。

どうして阿仏尼が京から鎌倉へ来たか?
為家には前妻との間に何人か子供がいるので
遅く生まれた為相の将来を心配した為家は
一旦長子為氏に譲った細川荘を為相への相続に
切り替えます。
為氏はその決定を受け入れますが
為家が亡くなるとそれを無視。
埒があかずに阿仏尼は訴訟を決心して
鎌倉に下向したのでした。
その道中見たものや
鎌倉に来てからの生活を
書いたものが十六夜日記
(いざよい日記)です。
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こちらは十六夜日記にも出て来る極楽寺です。
おうちは江の電の極楽寺駅から
稲村ケ崎に向かう線路沿いなので
このあたりを歩いていたのでしょう。
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こちらは月影地蔵
元は阿仏尼の邸宅にあったものを
移したらしいです。

阿仏尼は安嘉門院のもとに女房として
出仕していたり、
為家との出逢いが
源氏物語』を介してというように、
優美な世界の人でした。
鎌倉へ下ったのは60歳くらいのこと
その時代の60歳って
今で言えばどのくらいだろう?
かなりの高齢者のはずです。
それを京から鎌倉へ来て訴訟なんて
人生って何が起こるかわからないものですね。
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その息子の為相は母阿仏尼の後を追って
鎌倉へ下り住んだのがこの藤ヶ谷
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お墓は浄光明寺の裏山にあります。
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為相のお墓からの眺めです。
向こうに海まで見渡せますがその手前から
踏切の音が聞こえ電車も見えます。
阿仏尼のお墓はその線路沿いにあり、
母のお墓をいつも眺められるようにと
この場所に為相のお墓を造ったと
いわれています。
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阿仏尼の生きている間に
訴訟の決着はつかず、
20年も争われて為相の勝利となります。
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ここは裁許橋(さいきょはし)
この近くに問注所(今で言う裁判所)が
近くにありました。
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今の御成小学校の辺りに
問注所があったそうです。
門だけ昔のデザインを残してあります。
ここに通っていたんでしょうか?
阿仏尼さん

問注所と言えば前回日記の熊谷直実も
ここで所領を巡る裁判をしたってことですね。
あ〜いろんな歴史のシーンがこの場で・・・
想像するだけでも楽しくなる鎌倉散歩でした〜


阿仏尼邸宅跡 江の電『極楽寺』より徒歩5分
月影地蔵 反対方向に徒歩5分
浄光明寺鎌倉駅西口から徒歩15分
阿仏尼墓
鎌倉駅西口から徒歩15分
英勝寺並びやぐらの中










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by midorikojika | 2017-09-24 02:11

金戒光明寺にその後の直実さんに会いに行きました〜



源平合戦でも名高い一の谷の戦い


鵯越(ひよどりごえ)の逆落としは
眼下に平家の陣を見下ろして、
ほぼ断崖絶壁を
馬で駆け下り奇襲をかけるって言う、
義経かっこい〜〜な場面ですが、
他にも名場面はたくさんありで
今日お訪ねするのは
その中でも有名な
歌舞伎『一の谷双葉軍記』の主役、
熊谷直実さんです。
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その後の直実さんを訪ねる前に
このお話のあらすじをざっと・・・

一の谷の戦いも終盤にさしかかり源氏の勝ちは確実だったころ、熊谷直実はもうひとつ手柄をたてようと海岸へ馬を進めているた。
すると1人の武将が沖の船めがけて馬で海に入ったところへ出くわした。
その武将は相当な高級品を身につけていて、
「これは大物に違いない!」
直実は、
敵に後ろを見せて逃げるるなんてかっこ悪いぞ!引き返してこいや〜
と、呼びかけた。
するとその武者は振り返り一騎打ちを挑む。
しかしすぐに直実に倒されその兜をとると、年の頃なら16~17歳の自分の息子と同じ年頃の美少年。
あまりの美しさに何処に刀を突き立ててよいかもわからず、
しかもこの戦いで直実の息子も怪我をしている。
自分の息子がちょっとした怪我をしただけでも心配なのに、
『この人を討ってしまったら親はどれだけ悲しむだろう』と刀を引っ込めた直実は、
貴方を斬ったところでもう勝敗は決まっている。命はお助けするから名前を教えてくれ
するとその少年は『そうおっしゃるあなたはドナタですか?
自分はたいした物ではない。武蔵の国の熊谷直実という者だ
でしたら私はあなたにとって良い相手です。僕の首をとったらきっと誰かが知っているから
その気品ある立ち振る舞いにますます彼を殺せなくなった
直実はその場を立ち去ろうと後ろを向いた。
しかし、こちらに
土肥実平と梶原景時が50騎ばかりの兵を引き連れてやってくるのが見えて、これはもう無理!
自分が見逃しても誰かがあなたの首をとる。
ならばこの直実が討つ!
と、刀を振り下ろしてその若武者の首を斬り、
そしてその首を包もうと服を脱がせると錦の袋に包んだ笛を見つける。

それは昨晩、決戦を間近に控えたこの一の谷一帯に
何処からともなく聞こえて来た美しい笛の音
その音色に源氏の武将はみな感動していたのだった。
昨夜の笛の音はこの人だったのか!戦場に笛を持って来るなんてなんと心の優しい人なのだろう
その後の首実検で平敦盛(清盛の甥)であることがわかり、
持ち帰った笛を見て涙を見せないものはいなかった。

この平敦盛との一戦は直実の心に深く刻まれる出来事になり、
理由はそれだけではないにしても戦いのむなしさに後の出家へと繋がったともされています。

今回訪ねたのはその出家先の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
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わたくし関東の人間なので
京都のことはよく知らず、
今回このお寺を訪ねるにあたり
地図を見てみると
ずいぶん大きなお寺でした。
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この松が法然上人を訪ねた熊谷直実が
池で洗った鎧をかけたという、鎧掛けの松
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二代目ですけどね^^
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法然の廊所、勢至院前にある、
熊谷直実の五輪塔
そして向かい合わせに、
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平敦盛の五輪塔です。

直実の出家の理由は
戦いのむなしさからだけではなく、
手柄に対する恩賞が
大豪族に比べて微々たるものだったりの
不満や、兼ねてから領地問題で
確執のあった伯父との裁判で
不利な立場に立たされて敗訴して
切れてその場で髪を切り落として
出家したとも言われていますが、
それはきっかけで
いつかは出家して浄土住生への道を
歩みたかったのではないでしょうか?

出家後は法名を蓮生(れんせい)
と名乗りました。

その後、1207年に亡くなるまで鎌倉では
1198年に頼朝が亡くなり、
梶原景時(宿敵だったけど)の乱、
比企能員の乱、
頼家の暗殺、
畠山重忠の乱と
悲しい殺し合いが続きます。
そんな理不尽に巻込まれることなく
信仰に一途に修行出来た直実。

極楽浄土でと再会した直実と敦盛・・・
今度はお互いの立場を超えて
向かい合わせで穏やかに楽しい会話などして過ごしているのではと思います。




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by midorikojika | 2017-09-15 00:34

六波羅蜜寺へ阿古屋を訪ねて来ました〜

前回の主役、平景清は歌舞伎や浄瑠璃の題材となって日本各地に伝説も残る人気者^^
今回はその一つ、阿古屋塚を訪ねて来ました〜
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それは六波羅蜜寺の境内に
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どどん!と立派にたたずんでおります。
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隣はなんと清盛公
(平清盛より阿古屋塚の方が大きい!)

建てられた時代が少し違うのか?
阿古屋塚は阿古屋の菩提を弔うために
鎌倉時代に建てられたとされています。

このあたりはかつて平家の館が立ち並んでいたそうですが平家滅亡後は
鎌倉幕府の京都守護の出先機関
『六波羅探題』として
北条氏の者が京都の警備・監視役として
駐留するようになりました。

阿古屋
室町時代の幸若舞の『景清』
浄瑠璃『景清』
(これらでは景清を役人に密告する悪女)
江戸時代にこれを改作して
『出世景清』
さらに改作して『壇浦兜軍記
(だんのうらかぶとぐんき)
この三段目にあたる『阿古屋の琴責め』
歌舞伎で今も上演されています。

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阿古屋の琴責め
平家滅亡後、悪七兵衛景清は
頼朝の命をつけ狙います。
鎌倉幕府の役人岩永左衛門は
景清の思い人であった五条坂に住む白拍子
(遊女とも)阿古屋は捕らえ景清の行方を
白状させようとしますが
阿古屋は『知らぬ』と言い張ります。

同じく役人の畠山重忠
一風変わった拷問を用意します。
それは琴、三味線、胡弓を順に演奏する事。
これらの楽器は心にやましさがあると音色が乱れるので
重忠は阿古屋の演奏を聴いて
彼女の心のうちを推し量り、嘘偽りがないかを見極めようとしたのです。
そして阿古屋はそれらの楽器を一点の乱れもなく演奏し、
重忠は阿古屋の言葉に偽りはないと釈放しました。

畠山重忠
知性と武勇を兼ね備えた
鎌倉武士の鑑とされた人物です。
一の谷の合戦では
怖がる愛馬を背負って駆け下りたとか
(そりゃ無理^^;;)
宇治川合戦では
大串重親を鷲づかみにして岸に放り投げるとか
(助けてもらったのに重親が自分が先陣だと名乗ったから大笑い)
永福寺の庭園造営の際、
庭の巨石を1人で持ち上げて
皆を感心させたとか

力持ちであり、

歌舞音曲の才もあったようで
鶴岡八幡宮で静御前の舞にあわせて
銅拍子をうったのが重忠
また鶴岡八幡宮で神楽が催された後の酒宴で
京都から来た今様達者の雅児の吹く横笛に
合わせて今様歌を披露して頼朝を
楽しませたのも重忠だったそうです。

そんな音感に優れていたから
この阿古屋に対する演奏の拷問で
一点の乱れも無い事も見抜けたという
設定になったのかもしれないですね。

それにしても静御前の鶴岡八幡宮の舞や、
阿古屋の拷問や、
行方不明の恋人のために捕らえられて
敵の前で自分の芸を披露するって
悲劇のヒロインの定番なんでしょうか?
それを見事にこなして
敵を感動させてるところも
オンナ強し!かっこええ〜〜〜♡

***六波羅蜜寺***
京都市バス
京都駅 206 系統、清水道下車、徒歩7分
京阪電車
清水五条駅下車、徒歩7分
阪急電車
河原町駅下車、徒歩15分





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by midorikojika | 2017-08-25 05:21

平景清を訪ねて化粧坂


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それは鎌倉の化粧坂の入り口にひっそりとあります。
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意識しなければ通り過ぎてしまうようなそれは
水艦景清大居士
ここは平景清の最後の地であります。
平景清
平家に仕えて都落ちに従ったため、
平と呼ばれていますが、
藤原秀郷の子孫で伊藤景清とも言います。
大河ドラマの平清盛ではこのお方のお父さんがずっと平家に仕えていました。
俳優の藤本隆宏さん演じる
伊藤忠清は素敵だった〜♡

余談ですが第47回『宿命の対決』で
富士川の戦いで水鳥の飛び立つ音を敵襲と
勘違いして逃げ出して総崩れ・・・
何ともトホホな負け戦をして帰った
維盛に激怒した、
その頃はクソジジイ化していた清盛
忠清の首をも刎ねようとした
その時、

『死ぬる前に申し上げたい義がござりまする。

殿は今、維盛様に仰せになりました。

それでも平家の男の子かと。

戦というものをご存じなく、兵の心を知らず。遊び女を陣内に招き入れる。

それが紛うことなき

平家の男の子の姿にございます。

平家を公卿にまで高めた。

武士ではできなかったでしょう。

殿、平家はもはや武門ではござりませぬ。

殿ご自身がもはや武士ではござりませぬ。

殿が目指した武士の世は、

武士のままでは造れぬものにござりました。』


どうぞ、この首、刎ねてくださりませと忠清。

清盛が忠清の首を刎ねようとして

太刀を振り上げる。

しかし、、、

剣の重さに負けて尻餅してしまう清盛

もう身も心も武士ではない

哀しい清盛爺(泣)


ここ、、、名場面です!


話がずれましたがこの景清さん

何故この鎌倉に?

景清の伝説は数多く、

歌舞伎や浄瑠璃にも多く使われています。

ここの洞窟の牢に

捕らえられていた説もありますが、

私が信じている説を

今日はご紹介させていただきます。


平景清(伊藤景清)

上総七郎(上総介忠清の七男という意味)

悪七兵衛(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛だったそうです。

この時代の『悪』とか『鬼』とかは

悪者的な意味ではなく

そのくらい強いって言う意味で使われます。


源平合戦の中でも扇の的で有名な

屋島の戦い

ドラマなどではだいたい

那須与一が見事に扇を撃ち落とし

源氏かっこい〜〜で終わるけど、

実は続きがあるんです

与一が見事に扇を撃ち落とした直後に

あっぱれ!と、ばかりに

船上でお祝いの舞いを

始めた平家方の男へ

『あれも射よ!』と、義経

『ええっ〜〜〜?』

『勘弁(汗)』

みたいな与一さんの心のうちが

見えてきそうなこの場面。

与一だってこんな賭けみたいな事ホントはしたくなかったはず、、、

まるで弓の名手ならこの人!と

登場したかの様にドラマでは描かれていますが

実のところ畠山重忠に断られ

那須為高(与一の兄)にも断られ

三人目の与一に『これ断るなら国へ帰れ!』と

義経に切れられて渋々の登場だった訳で、、、

またもや、嫌だけど心を鬼にして

放った矢は男の首に命中。


これをきっかけに再び戦闘がはじまり

景清は逃げる源氏側の美尾屋十郎の

甲の(しころ=首を保護するために甲の後ろに垂れている部分)を

素手で掴んで引きちぎり、

十朗は側にいた馬の影に隠れたものの

深追いはせず、

引きちぎった錣を天高くかざしながら

『我こそは都の童も

悪の七兵衛と呼ぶ上総の景清よ!』

と、名乗りをあげるのです。

そのあとも義経の

ちょっと格好悪いエピソードがあるけど

切りがないのでまたの機会にしますが

景清はこのあと壇ノ浦の戦いでも

上手く戦場を逃れて生き延び、

兄・忠光源頼朝の命を狙います。

しかし忠光は

鎌倉に建設中だった永福寺の工事現場に

片目に魚の鱗を入れた姿で侵入して

頼朝暗殺の機会を狙いましたが

素性がバレて処刑されてしまいます。


そして景清は東大寺大仏殿に

頼朝がお参りするのを

狙って暗殺計画を企てるも見つかってとうとう捕らえられてしまいます。

しかしすぐに斬首される事は無く、

主君を思う武士の誉れとして

鎌倉武士の同情を買い、

鎌倉へ送られ武闘派で知られる和田義盛

預けられます。

しかし流石に悪七兵衛!

景清は義盛邸の庭で馬を乗り回し、

酒を飲んでは大暴れ・・・

豪快すぎます!

困り果てた義盛は頼朝に相談して

八田知家に預かり役を代わってもらいます。

義盛と同じく武闘派で

敵ながらも豪快で大胆な景清に

良い印象を持っていた

知家は義盛以上に親切に

敵に捕らえられ、

その地で保護されるという

惨めで哀しい気持ちを悟られまいとした

景清の横暴ぶり

何一つ文句も言わずにまるで息子の様に

もてなしてくれました。


その優しさに

今まで張りつめていた景清の心は

見事に崩れました。

やがて彼は化粧坂の中腹にある洞窟に籠り

それでも毎日八田家から運ばれて来る食事には

一切手を付けずに

ひたすら読経を続け

勇猛と称された身体は見る影もなく

やせ細り、

1195年3月7日

その命が尽きるのです。


長くなりましたが上の写真が化粧坂入り口の洞窟跡の碑です。

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現在多くの観光客が訪れる化粧坂は
かなり昔の面影が残る場所だと思われます。
鎌倉七切り通しのひとつで、防御上わざと登りにくくしてあるのと、
名前の由来は源平合戦で平家の武将の首実検をここで行う際、
首を化粧したからだそうで( ꒪⌓꒪)( ꒪⌓꒪)( ꒪⌓꒪)

多くの仲間達が首実検されたこの地で
読経を続けた景清
源平合戦での出来事や逃亡生活が
走馬灯の様に駆け巡っていたのでしょうか?

***化粧坂(けわいざか/けしょうざか)***
鎌倉駅または北鎌倉駅より徒歩












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by midorikojika | 2017-08-20 21:40

ペリーに会いに行った〜沖縄〜



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前回の続きです。
ペリーは浦賀に来る前に琉球にも来ていたんですね〜
この門の奥にその記念碑があります。
その前に、、、
ここは泊港のほど近くにあります、
泊外人墓地です。
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ちなみにペリーのお墓はありませんよ^^。。。

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1853年5月26日
琉球に立ち寄った(と、言うより目的があって来た)
ペリーは首里城訪問を打診しますが拒否されます。
そこで6月6日
軍楽隊を先頭に武装した水平総勢200人以上を引き連れ
市内を行進しながら首里城へ向かったそうです。
国王側は仕方なく入城を許します。

その後
小笠原諸島父島→那覇
→浦賀
観音崎の水深測定をしたり〜
久里浜に上陸したり〜
江戸湾の測量をしたり〜
また来るよ〜と浦賀を去って那覇へ。
今度は香港へ行って再び那覇。と、
年表みるとあっちこっち忙しくして〜の
1854/3/31日米和親条約締結
7/11琉米修好条約締結
琉球側はこの条約を拒否したけれど
日米和親条約の締結を知り
受け入れる事にしたそうです。

当時の事をネットで色々調べると
沖縄とアメリカの関係の辛さはこのときから今も変わらず
続いているんだなと。
中途半端な知識の私がここに知った様に書くのは
差し控えますが考えさせられてしまいました。

今回の沖縄旅行の目的は
コザという街の音市場でのエレカシのライブもあり、
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この街でも戦後沖縄が日本に返還される前に暴動があったそうです。
それも沖縄の人は知っていて本土の人は殆ど知らない話だそうで、、、
何も知らずに沖縄の楽しいことばっかり考えていた自分だったので
複雑な気持ちになりました。
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コザで泊まったゲストハウス
1階がカフェでお洒落です。
でもこの街
すご〜〜〜いディープ。
横須賀のドブ板通りを大きく、怖く、
したみたいです。
夜は1人じゃ歩けません。。。

沖縄も広い!
首里城もまだ行けてないし、
また行きたいです。







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by midorikojika | 2017-08-13 14:52

ペリーに会いに行った〜久里浜〜


もしもタイムトリップ出来たら、、、
どの時代のどんな場面に行ってみたいですか?
わたしは数えれば切りないけど、、、
1853年の黒船来航で大騒ぎした街の様子を見てみたいです。
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・・・ってことで、やって来ました。

ここは久里浜ペリー公園
嘉永6年(1853年)7月8日(太陽暦)
ペリー提督率いる黒船4隻が
浦賀沖に現れます。
そして上陸したのは7月14日にここ久里浜。
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このペリー公園にはペリー記念館があって
小さいながらなかなかの充実ぶりです。
行った日は閉館時間がせまっていたので駆け足でしかみれなかったけど
次はゆっくり見てみたいです。
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記念館のスタッフにお願いすればガイドもしてくれる、、、らしいです。
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泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠られず

あまりにも有名な句
これは蒸気船を上喜撰にかけていて、
当時人気のあった上等なお茶で
たった四はいでは、お茶4杯と船4艘(船を数えるのも杯を使った)を
もじっている、、、そして夜も眠られず、、、

この黒船来航の騒ぎっぷりを見てみたかったと冒頭で書きましたが
調べてみると庶民は意外と冷静で
小舟で黒船の側に行き、乗組員との物々交換を試みたり、
外国人相手に商売を始める者も出て来たりで、
その珍しさや新しさを楽しんでいたようで、
たった4艘の黒船でビビってしまったのは幕府だけだったみたいです。

ペリー記念館にはペリーの人柄についての記録もあり、
家族思いで子供へ向けた手紙の内容も紹介していました。
プライベートでは普通のお父さんだったようです。

ペリー公園を訪れてから5ヶ月後、
沖縄へ旅行する機会がありました。
沖縄と言えば、、、琉球王国よね〜
でもって、
源為朝琉球王伝説よね〜
なんて、沖縄の史跡を調べていたら、
ん?ペリー

そう、ペリーは琉球にも来ていたんですね。
もちろんその場所に行って来ました。
そこで色々考えさせられてしまったので
続きは次回おつきあいください。

ペリー公園
京急久里浜駅またはJR久里浜駅から久里浜循環バス「ペルリ記念碑」下車















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by midorikojika | 2017-07-30 23:40

三浦半島の城跡〜鐙摺城址〜

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こんにちわんです!
三浦半島には地味ながら見応えのある史跡が
沢山あります。
前回の六代のお墓を訪ねた日は盛りだくさんで
他にも時代が前後しながら
歴オタの自分としては満腹感のある
お散歩の出来た1日でした。
その中からまた1つご紹介します^^

いきなりワンズが登っているのは
鐙摺城址です。
葉山の港近くで小高いお山です。
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山頂は広場みたい
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海がみえますね〜
このお城は
鐙摺城の他に 旗立山、軍見山、
とも呼ばれていました。
鐙摺という名は三浦義明の三男、
太多和三郎義久
挙兵前の頼朝をここへ案内した際、
頼朝の鐙が摺れたことから
この名をつけたと言われています。
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こちらは伊東祐親の供養塔です。
伊東祐親(いとうすけちか)
頼朝の最初の彼女、八重姫のお父さんです。
(オンナ好きの頼朝なので最初かどうかは?)
祐親は伊豆に流刑になった頼朝の監視役。
京から3年ぶりに戻ると
自分の娘が頼朝の子を産んでいる。
平家全盛の時代に
源氏の子供なんてとんでもない!と、
可愛い盛りの千鶴丸を川に沈めて殺害。

八重姫は頼朝から引き離され
江間小四郎に嫁がされるが、その後家出して
頼朝を訪ねた時には北条政子と結婚していた。
絶望した八重姫は入水自殺(泣)

そして頼朝挙兵
平家側についた伊東祐親は
富士川の戦い後に捕らえられ
長女の嫁ぎ先の三浦義澄に預けられます。
義澄の助命嘆願と北条政子の懐妊もあって
恩赦が下されることになりましたが
以前の行いを恥じるとしてこの地で自害したとされています。

そしてもう一つ
このお城には
頼朝の女性関係のお話があります。

亀の前
頼朝の浮気相手として
1番有名なのがこのお方。
伊豆からの関係で小坪(逗子)に
呼び寄せて寵愛を続けたそうな、、、

容姿端麗で優しい人柄
う〜ん。
政子の様な強いオンナも良いけど
優しい女性に癒されたくも
なるのかな〜〜?

それを義母の牧の方に聞いた政子は激怒!
小坪のお家は破壊され、
命からがら
逃げて来たのがこの鐙摺城だそうです。

オンナ好きの頼朝
これに留まらず、
政子が妊娠中にやらかします。
最低の旦那だ\\\٩(๑`^´๑)۶////

次女乙姫を妊娠中には
悪源太義平の未亡人
(お兄ちゃんの奥さん)にまで
手を出し、、、未遂に終わるけど(;o;)

他にも沢山ありすぎるので
今回はここまで^_^
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鐙摺城の直ぐしたの道路沿いにあるお菓子屋さん
蔵の素敵なお店です。
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逗子の海岸も直ぐ近くですよ〜

最初に書いた別名
旗立山、軍見山に関してはまたの機会にゆっくり書かせていただきます^^/

鐙摺城址
JR逗子駅よりバス『鐙摺』下車
JR逗子駅より徒歩30分












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by midorikojika | 2017-07-18 23:44

六代のお墓

前回のお散歩で訪ねた文覚続きで、
文覚によってその運命を変えられたお方
      六代さん

 六代・・・・平の清盛の曾孫ちゃんです。
なぜ六代と呼ばれているかと言いますと、、、
清盛のお爺ちゃん、平正盛から数え
6代目に当たるからだそうです。
正盛、忠盛、清盛、重盛、維盛、
そして高清←六代は幼名です。

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なかなか、立派であります。。。
と、思いきや、、、この奥に、、、
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更にこの階段を上がって
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じゃ〜〜〜ん!!
すごい立派であります^^
大きなケヤキの木の下のお墓で
六代さんは何を思うのでしょうか??

1173年 
平徳子が高倉天皇に入内した、
まさに平家全盛の頃に生まれた六代
しかし10歳で平家は都落ち
父維盛の都落ちのシーンは涙を誘います。
出発しようと馬にまたがる維盛に
『置いて行かないで〜』
と鎧にすがる息子の六代
最後に弓のはしでサッと簾をかきあげ、
もう一度
妻と息子と娘の顔を見てから
静かに都を落ちて行く維盛。
これが永遠の別れとなります。

そして1185年
壇ノ浦で平家滅亡
(父維盛はその前に突然戦線を離脱し
放浪の末、那智で入水自殺)
京にいた六代は
北条時政に捕らえられ鎌倉へ送られ
処刑されるはず、、、でしたが

ここで文覚の登場です。

当時、頼朝の信頼を一身に受けていた文覚は
まだ幼い子を斬る事を良しとせず、
出家させて自分が面倒を見ると
頼朝に頼み込み、
六代は処刑を免れ妙覚(みょうかく)として
仏の道に生きることになりました。
荒くれ者で怪しい坊さん文覚だけど
こんな優しい一面もあったんですね〜^^
その後、1194年
鎌倉で頼朝に謁見した六代は
改めて謀反の意思が無い事を頼朝に告げます

しかし、その4年後
頼朝の死から1ヶ月、
三左衛門事件
文覚が関与していたとされ佐渡に流罪

そのころ全国各地を回る行脚修業の最中だった
六代はもちろん
事件には関与していなかったのです。
が、
修行を終えて京に戻ったところを
拘束され鎌倉に送られたあと
田超川にて斬首
享年26歳でした。

なにもしてないのに生きている事を
許されなかった六代。
平家の血が鎌倉幕府の脅威と
なってしまったのでしょう。

頼朝と言うカリスマを失った
鎌倉幕府はこのあと
血生臭〜い
権力争いを繰り広げて行くことになるのです。


六代御前の墓
JR逗子 または
京浜急行 新逗子駅より徒歩約10分










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by midorikojika | 2017-07-15 04:40

怪しい坊さん 文覚を訪ねて伊豆と鎌倉




約1年8ヶ月ぶりの更新です^^;;

伊豆へ頼朝流人時代を訪ねた旅の2日目は雨が上がりレンタサイクルでぐる〜〜〜っと♡
しかし暑かった〜〜〜
訪ねた文覚の毘沙門堂は坂道を
えっちらおっちら自転車で登ったあと、
歩きで山道を登り、、、
a0305530_23124808.jpg
ありました。
ここから更に階段を上ります。
a0305530_23144600.jpg
ここがまた、蒸し暑くてTシャツ絞れるくらい汗かきました;;;
更に上へ登り、、、
a0305530_23252965.jpg
到着!
a0305530_23262718.jpg
苔の綺麗なお庭です。
山奥すぎて人も来ないのか?
手入れはあんまりされてないようです。

でも、この山奥感や人も近寄らない感が、文覚にはぴったりと
はまると言うか、、、
この文覚さん
頼朝に平家を倒すべく
挙兵を決意させたと言う、、、
しかも義朝の髑髏持参の〜〜〜

いちいちやる事過激な坊さんで、
まずは出家したいきさつが凄くて、
もとは北面の武士
(院御所を守る武士←何事もなければ暇そう
たしか大河ドラマの平清盛も最初はこの仕事をしていてとっても暇そうでした)が、
若き文覚、遠藤盛遠(えんどうもりとお)
人妻だった袈裟御前に恋をします。

そして何とかその思いを遂げたいと迫る文覚に彼女は
『夫を殺してください』と、言います。
文覚は袈裟御前の夫の殺害を計画
ある夜こっそりと屋敷に侵入して
暗闇の中で夫を斬り殺しました。
ところが!
その斬った首を確かめるとそれは
夫ではなく男装した袈裟御前だったのです。

文覚と夫との間で苦しんだ彼女の決断は夫のふりをして文覚に斬り殺される事でした(泣)
彼女の菩提を弔う為に出家した文覚
(北面の武士が叶わぬ恋のあげく出家したってどっかで見た様な??
またまた大河ドラマの平清盛だけど西行の出家の理由が待賢門院に失恋した事でしたよね?
史実ではそれが美福門院とも上西門院とも、
または全く違う理由とも言われていますが)

そして荒行という荒行をかさねた文覚
京に帰ると評判の験者となっていて
神護寺の修復のための勧進帳をもって
あの後白河法王へ直談判!!
が、
彼の逆鱗に触れてしまって寄付どころか
伊豆へ流罪となり〜の、、、
そこで流人同士出会ってしまったのが
頼朝なのでした〜
(後白河法王の逆鱗に触れるエピソードがまたお互いはまり過ぎていて面白いのですがそれはまた機会があれば・・・)

そんな文覚
頼朝を挙兵へと決意させた時に
持参したものが義朝の髑髏かどうかは
定かではないけれど、、、
鎌倉の勝長寿院
ほど近くにおうちがありました。
a0305530_00051617.jpg
勝長寿院は頼朝が
義朝の菩提を弔うために建立したお寺で
義朝と一緒に亡くなった鎌田政清のお墓もここにあります。
(今は碑とそれぞれのお墓だけ残ってます)
a0305530_00134266.jpg
a0305530_00140902.jpg
知らないと通り過ぎてしまうほどの小ささ

一時は実朝と政子も
ここに葬られたそうですが、
今は寿福寺
(政子は安養院にもお墓があります)

その後の文覚は
頼朝の護持僧となり活躍したそうな・・・
しかし頼朝亡き後は
また波乱の人生が待ち受け、
最後は流刑地の対馬へ行く途中、太宰府で命を落としたそうです。

いや〜〜映画の一本でも作れそうな
ドラマチックな人生だな〜と、
検索してみたらありました〜
地獄門
昭和28年って、、、かなり古いですね。。。
他、江戸時代には
歌舞伎や人形浄瑠璃の
題材にもなったようです。

京都には文覚と袈裟御前縁の
『恋塚寺』があります。
行ってみた〜〜〜い!!











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by midorikojika | 2017-07-08 00:42

八重姫・政子・時政・頼朝との出会いが運命だった。

伊豆韮山へ頼朝流人時代の史跡を訪ねに行って来ました〜

伊豆長岡の駅からレンタサイクルで回る予定でしたがまさかの雨・・・

で、泊まりがけだったので1日目は歩きで回れる範囲だけ。。。

まずは真珠院
a0305530_14382944.jpg
頼朝の最初の彼女?八重姫を祀る八重姫御堂(静堂)があります。
a0305530_14412216.jpg

伊豆で流人生活をしていた頼朝と平家方の監視人、伊東祐親の娘である八重姫が恋におちて千鶴丸っていう男の子も産まれますが、京から3年ぶりに戻った父の激怒に合い、子は殺され、他の男に嫁がされ、それでも頼朝が忘れられずに逃げて来ると彼は北条政子と結婚していた。
絶望した八重姫はこの地で入水自殺(涙)
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↑こちらが八重姫堂
a0305530_14423236.jpg
願掛け石(年の数たたくと願いが叶うそうです)
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八重姫主従七女之碑
八重姫に従っていた侍女6人が、真珠ヶ淵に身を投げた八重姫を葬り弔ったのが真珠院のはじまりだと言われているそうです。
八重姫を葬った侍女たちは、伊東へ帰る途中で自害したそうです。(涙)

次に来たのは八重姫とは対照的な道へ進んだ北条政子産湯の井戸
a0305530_1525623.jpg

a0305530_1533125.jpg
ふっ、、、古い〜井戸。。。だけど手入れはしてある様ですね。
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使ってはいないみたいだけど、私の様な歴史好きのために保存してあります。

北条政子については誰でも知るところですね。
当時、地元の小さな?豪族だった北条氏が(八重姫の伊東氏の方がずっと大きかったらしい)鎌倉幕府150年を取り仕切る事になろうとはこの産湯に浸かった政子が産まれた時にはだれも想像し得なかった事でしょう。

そしてその父、時政
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ここ、願成就院(がんじょうじゅいん)は、北条時政が頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したというお寺です。
ここに時政自身も眠っております。
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八重姫のお父さん、伊東祐親は当時の絶対権力だった平氏を恐れて罪人である頼朝の子供なんてとんでもない!と、千鶴丸を殺し、姫と頼朝を別れさせてしまいましたが、時政は最初は反対したもの、政子の固い意志に遂には2人を許して頼朝挙兵の際には源氏側につき、、、と家族ぐるみで頼朝を支えて鎌倉幕府へと進んで行きますが、、、、
この時政さん、トホホな晩年です。上記まではかっこいいお父さんだけど、
頼朝亡き後、権力維持のため次々に御家人を抹消して行き〜の、最高権力者となったお父さんは後妻の牧の方とその息子(連れ子)のわがままを聞き入れ判断力が無くなったのか、
自分の孫である時の将軍、実朝の暗殺計画を企てます。

これが政子とその弟2代執権義時にばれて伊豆に幽閉・・・
10年後に寂しくこの世を去ったそうです。

権力って恐い。
全て自分の意のままになると思えてしまうのか?
悲しい結末です。
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by midorikojika | 2015-10-25 15:44


愛犬をお供にゆる?く史跡を巡った日記です
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