ゆる歴散歩♪



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ペリーに会いに行った〜久里浜〜


もしもタイムトリップ出来たら、、、
どの時代のどんな場面に行ってみたいですか?
わたしは数えれば切りないけど、、、
1853年の黒船来航で大騒ぎした街の様子を見てみたいです。
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・・・ってことで、やって来ました。

ここは久里浜ペリー公園
嘉永6年(1853年)7月8日(太陽暦)
ペリー提督率いる黒船4隻が
浦賀沖に現れます。
そして上陸したのは7月14日にここ久里浜。
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このペリー公園にはペリー記念館があって
小さいながらなかなかの充実ぶりです。
行った日は閉館時間がせまっていたので駆け足でしかみれなかったけど
次はゆっくり見てみたいです。
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記念館のスタッフにお願いすればガイドもしてくれる、、、らしいです。
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泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠られず

あまりにも有名な句
これは蒸気船を上喜撰にかけていて、
当時人気のあった上等なお茶で
たった四はいでは、お茶4杯と船4艘(船を数えるのも杯を使った)を
もじっている、、、そして夜も眠られず、、、

この黒船来航の騒ぎっぷりを見てみたかったと冒頭で書きましたが
調べてみると庶民は意外と冷静で
小舟で黒船の側に行き、乗組員との物々交換を試みたり、
外国人相手に商売を始める者も出て来たりで、
その珍しさや新しさを楽しんでいたようで、
たった4艘の黒船でビビってしまったのは幕府だけだったみたいです。

ペリー記念館にはペリーの人柄についての記録もあり、
家族思いで子供へ向けた手紙の内容も紹介していました。
プライベートでは普通のお父さんだったようです。

ペリー公園を訪れてから5ヶ月後、
沖縄へ旅行する機会がありました。
沖縄と言えば、、、琉球王国よね〜
でもって、
源為朝琉球王伝説よね〜
なんて、沖縄の史跡を調べていたら、
ん?ペリー

そう、ペリーは琉球にも来ていたんですね。
もちろんその場所に行って来ました。
そこで色々考えさせられてしまったので
続きは次回おつきあいください。

ペリー公園
京急久里浜駅またはJR久里浜駅から久里浜循環バス「ペルリ記念碑」下車















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by midorikojika | 2017-07-30 23:40

三浦半島の城跡〜鐙摺城址〜

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こんにちわんです!
三浦半島には地味ながら見応えのある史跡が
沢山あります。
前回の六代のお墓を訪ねた日は盛りだくさんで
他にも時代が前後しながら
歴オタの自分としては満腹感のある
お散歩の出来た1日でした。
その中からまた1つご紹介します^^

いきなりワンズが登っているのは
鐙摺城址です。
葉山の港近くで小高いお山です。
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山頂は広場みたい
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海がみえますね〜
このお城は
鐙摺城の他に 旗立山、軍見山、
とも呼ばれていました。
鐙摺という名は三浦義明の三男、
太多和三郎義久
挙兵前の頼朝をここへ案内した際、
頼朝の鐙が摺れたことから
この名をつけたと言われています。
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こちらは伊東祐親の供養塔です。
伊東祐親(いとうすけちか)
頼朝の最初の彼女、八重姫のお父さんです。
(オンナ好きの頼朝なので最初かどうかは?)
祐親は伊豆に流刑になった頼朝の監視役。
京から3年ぶりに戻ると
自分の娘が頼朝の子を産んでいる。
平家全盛の時代に
源氏の子供なんてとんでもない!と、
可愛い盛りの千鶴丸を川に沈めて殺害。

八重姫は頼朝から引き離され
江間小四郎に嫁がされるが、その後家出して
頼朝を訪ねた時には北条政子と結婚していた。
絶望した八重姫は入水自殺(泣)

そして頼朝挙兵
平家側についた伊東祐親は
富士川の戦い後に捕らえられ
長女の嫁ぎ先の三浦義澄に預けられます。
義澄の助命嘆願と北条政子の懐妊もあって
恩赦が下されることになりましたが
以前の行いを恥じるとしてこの地で自害したとされています。

そしてもう一つ
このお城には
頼朝の女性関係のお話があります。

亀の前
頼朝の浮気相手として
1番有名なのがこのお方。
伊豆からの関係で小坪(逗子)に
呼び寄せて寵愛を続けたそうな、、、

容姿端麗で優しい人柄
う〜ん。
政子の様な強いオンナも良いけど
優しい女性に癒されたくも
なるのかな〜〜?

それを義母の牧の方に聞いた政子は激怒!
小坪のお家は破壊され、
命からがら
逃げて来たのがこの鐙摺城だそうです。

オンナ好きの頼朝
これに留まらず、
政子が妊娠中にやらかします。
最低の旦那だ\\\٩(๑`^´๑)۶////

次女乙姫を妊娠中には
悪源太義平の未亡人
(お兄ちゃんの奥さん)にまで
手を出し、、、未遂に終わるけど(;o;)

他にも沢山ありすぎるので
今回はここまで^_^
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鐙摺城の直ぐしたの道路沿いにあるお菓子屋さん
蔵の素敵なお店です。
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逗子の海岸も直ぐ近くですよ〜

最初に書いた別名
旗立山、軍見山に関してはまたの機会にゆっくり書かせていただきます^^/

鐙摺城址
JR逗子駅よりバス『鐙摺』下車
JR逗子駅より徒歩30分












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by midorikojika | 2017-07-18 23:44

六代のお墓

前回のお散歩で訪ねた文覚続きで、
文覚によってその運命を変えられたお方
      六代さん

 六代・・・・平の清盛の曾孫ちゃんです。
なぜ六代と呼ばれているかと言いますと、、、
清盛のお爺ちゃん、平正盛から数え
6代目に当たるからだそうです。
正盛、忠盛、清盛、重盛、維盛、
そして高清←六代は幼名です。

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なかなか、立派であります。。。
と、思いきや、、、この奥に、、、
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更にこの階段を上がって
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じゃ〜〜〜ん!!
すごい立派であります^^
大きなケヤキの木の下のお墓で
六代さんは何を思うのでしょうか??

1173年 
平徳子が高倉天皇に入内した、
まさに平家全盛の頃に生まれた六代
しかし10歳で平家は都落ち
父維盛の都落ちのシーンは涙を誘います。
出発しようと馬にまたがる維盛に
『置いて行かないで〜』
と鎧にすがる息子の六代
最後に弓のはしでサッと簾をかきあげ、
もう一度
妻と息子と娘の顔を見てから
静かに都を落ちて行く維盛。
これが永遠の別れとなります。

そして1185年
壇ノ浦で平家滅亡
(父維盛はその前に突然戦線を離脱し
放浪の末、那智で入水自殺)
京にいた六代は
北条時政に捕らえられ鎌倉へ送られ
処刑されるはず、、、でしたが

ここで文覚の登場です。

当時、頼朝の信頼を一身に受けていた文覚は
まだ幼い子を斬る事を良しとせず、
出家させて自分が面倒を見ると
頼朝に頼み込み、
六代は処刑を免れ妙覚(みょうかく)として
仏の道に生きることになりました。
荒くれ者で怪しい坊さん文覚だけど
こんな優しい一面もあったんですね〜^^
その後、1194年
鎌倉で頼朝に謁見した六代は
改めて謀反の意思が無い事を頼朝に告げます

しかし、その4年後
頼朝の死から1ヶ月、
三左衛門事件
文覚が関与していたとされ佐渡に流罪

そのころ全国各地を回る行脚修業の最中だった
六代はもちろん
事件には関与していなかったのです。
が、
修行を終えて京に戻ったところを
拘束され鎌倉に送られたあと
田超川にて斬首
享年26歳でした。

なにもしてないのに生きている事を
許されなかった六代。
平家の血が鎌倉幕府の脅威と
なってしまったのでしょう。

頼朝と言うカリスマを失った
鎌倉幕府はこのあと
血生臭〜い
権力争いを繰り広げて行くことになるのです。


六代御前の墓
JR逗子 または
京浜急行 新逗子駅より徒歩約10分










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by midorikojika | 2017-07-15 04:40

怪しい坊さん 文覚を訪ねて伊豆と鎌倉




約1年8ヶ月ぶりの更新です^^;;

伊豆へ頼朝流人時代を訪ねた旅の2日目は雨が上がりレンタサイクルでぐる〜〜〜っと♡
しかし暑かった〜〜〜
訪ねた文覚の毘沙門堂は坂道を
えっちらおっちら自転車で登ったあと、
歩きで山道を登り、、、
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ありました。
ここから更に階段を上ります。
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ここがまた、蒸し暑くてTシャツ絞れるくらい汗かきました;;;
更に上へ登り、、、
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到着!
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苔の綺麗なお庭です。
山奥すぎて人も来ないのか?
手入れはあんまりされてないようです。

でも、この山奥感や人も近寄らない感が、文覚にはぴったりと
はまると言うか、、、
この文覚さん
頼朝に平家を倒すべく
挙兵を決意させたと言う、、、
しかも義朝の髑髏持参の〜〜〜

いちいちやる事過激な坊さんで、
まずは出家したいきさつが凄くて、
もとは北面の武士
(院御所を守る武士←何事もなければ暇そう
たしか大河ドラマの平清盛も最初はこの仕事をしていてとっても暇そうでした)が、
若き文覚、遠藤盛遠(えんどうもりとお)
人妻だった袈裟御前に恋をします。

そして何とかその思いを遂げたいと迫る文覚に彼女は
『夫を殺してください』と、言います。
文覚は袈裟御前の夫の殺害を計画
ある夜こっそりと屋敷に侵入して
暗闇の中で夫を斬り殺しました。
ところが!
その斬った首を確かめるとそれは
夫ではなく男装した袈裟御前だったのです。

文覚と夫との間で苦しんだ彼女の決断は夫のふりをして文覚に斬り殺される事でした(泣)
彼女の菩提を弔う為に出家した文覚
(北面の武士が叶わぬ恋のあげく出家したってどっかで見た様な??
またまた大河ドラマの平清盛だけど西行の出家の理由が待賢門院に失恋した事でしたよね?
史実ではそれが美福門院とも上西門院とも、
または全く違う理由とも言われていますが)

そして荒行という荒行をかさねた文覚
京に帰ると評判の験者となっていて
神護寺の修復のための勧進帳をもって
あの後白河法王へ直談判!!
が、
彼の逆鱗に触れてしまって寄付どころか
伊豆へ流罪となり〜の、、、
そこで流人同士出会ってしまったのが
頼朝なのでした〜
(後白河法王の逆鱗に触れるエピソードがまたお互いはまり過ぎていて面白いのですがそれはまた機会があれば・・・)

そんな文覚
頼朝を挙兵へと決意させた時に
持参したものが義朝の髑髏かどうかは
定かではないけれど、、、
鎌倉の勝長寿院
ほど近くにおうちがありました。
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勝長寿院は頼朝が
義朝の菩提を弔うために建立したお寺で
義朝と一緒に亡くなった鎌田政清のお墓もここにあります。
(今は碑とそれぞれのお墓だけ残ってます)
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知らないと通り過ぎてしまうほどの小ささ

一時は実朝と政子も
ここに葬られたそうですが、
今は寿福寺
(政子は安養院にもお墓があります)

その後の文覚は
頼朝の護持僧となり活躍したそうな・・・
しかし頼朝亡き後は
また波乱の人生が待ち受け、
最後は流刑地の対馬へ行く途中、太宰府で命を落としたそうです。

いや〜〜映画の一本でも作れそうな
ドラマチックな人生だな〜と、
検索してみたらありました〜
地獄門
昭和28年って、、、かなり古いですね。。。
他、江戸時代には
歌舞伎や人形浄瑠璃の
題材にもなったようです。

京都には文覚と袈裟御前縁の
『恋塚寺』があります。
行ってみた〜〜〜い!!











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by midorikojika | 2017-07-08 00:42


愛犬をお供にゆる?く史跡を巡った日記です
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