ゆる歴散歩♪



<   2017年 10月 ( 2 )   > この月の画像一覧


悪役だけど本当は良い人!梶原景時のお家を訪ねました〜



歴史は勝者のもの・・・とよく言いますね。
吾妻鏡(あずまかがみ)という、鎌倉時代の歴史書は頼朝の挙兵から6代将軍宗尊(むねたか)
(1180〜1266)間の出来事を日記にしてまとめてあるものですが、
作成したのは北条氏なので北条に都合の悪い事は書いてないらしいです。
そして今の国際情勢も同じ様なことをしているな〜と思ってしまいますが、
自分のまずい部分は他人を悪者にしてカバーします。
全ては当てはまらないとは思いますが、
頼朝の重臣だったこのお方も吾妻鏡では極悪人の様に書かれています。

『平家物語』や『義経記』は義経をヒーローに描いているので
ここでも超悪役
今日お訪ねするのは、
大河ドラマ『義経』でやたらと義経と対立していた中尾彬さん演じる
梶原景時さんです。
歴史に詳しくない方でも、あの大河を観ていたのなら
『あ〜あの嫌なおじさんね!』とわかるはずです。

でもわたしはこの人はホントは良い人だと思うのです。
なぜなら頼朝が挙兵した直後の石橋山合戦のエピソードは有名だけど、
それを恩着せがましく言う事は無かったからです。
『自分はこんなによい事をしているんだ』と声を大にして言う人は
そんなによい事はしていない。。。
モテない男(女もか?)が、たまにモテるとモテ自慢をするのと同じ(笑)
よい事をしている人や、いつもモテている人はそれが当たり前だからわざわざ
自分からアピールしないのです。
(わたしの様に特によい事もしなければモテ話もない場合もありますが^^;)

いきなり話がそれましたが、このお方はそれと先見の目の様なものがあったのではないかとも思います。
窟に隠れる頼朝を見て、一目でその才気を見抜いたからその場で頼朝を助けて
その後忠誠を尽くし、その手足となって働いたのではないでしょうか?

頼朝も、そんな景時に信頼を置き、目付けのような役割を与えたのでしょう。

景時は義経の平家討伐の時だけではなく源氏の世になった後も

他の御家人の言動を常にチェックし、頼朝に報告するという役割を荷い続けます。

それは他の御家人たちからすれば、嫌な存在だったのではないかと思いますが、

多くの武士をまとめる立場にある将軍・頼朝にとっては重要な事で、

これは告げ口ではなく職務上の報告です。


そんな影時なので頼朝が亡くなると立場が危うくなります。

頼朝が亡くなったその年の10月に鎌倉幕府の御家人66人が、

『梶原景時 弾劾状(だんがいじょう)』を作成して

時の将軍・頼家に提出します。

弾劾状とは『失敗や置かした罪を暴いて責めること』

この時はきっと御家人たちが今までの恨みで

梶原景時の悪口をめちゃくちゃ書いたんでしょうね。。。

そして頼朝亡き後の幕府内有力御家人13人の合議制から失脚させられます。


釈明のために頼家に呼び出された影時でしたが

一言の弁明もせずに退室したそうです。

その2ヶ月後鎌倉を出た影時は領地の相模一宮に移り、

幕府に対抗する意思を固めた彼は一族を連れて京に向かいます。

それはすでに譲位していた後鳥羽上皇が、幕府に対抗して院政を行い、

朝廷の復権を図ろうとしていたのでこれに同調して、

上皇から院宣を賜り、甲斐源氏の武田有義(ありよし)

将軍にして九州に独立した幕府を構えようとしていたと

言われています(これも北条の記述なので定かではない)


しかし1200年1月20日

駿河国清見関まで来たところで付近の御家人から襲撃を受けて

多勢に無勢、殆どの者が倒れ、死を覚悟した影時は

長男・影季(かげすえ)次男・影高とともに

後方の山に身を隠し自刃します。


そんな影時さんの鎌倉の館は、、、

a0305530_00023023.jpg
とくに案内も無く、
a0305530_00034936.jpg
祠と
a0305530_00042327.jpg
古井戸が残るのみ。
なんか悲しくなって来たな〜〜

しかし、
a0305530_00070897.jpg
何故かお墓が東京都大田区にあります。
a0305530_00080140.jpg
a0305530_00232251.jpg
するすみもいた〜

a0305530_00090864.jpg
梶原家のお墓は鎌倉市の梶原
深沢小学校の校庭にもあるそうです。

そして箱根で偶然見つけたのが、、、
a0305530_00282242.jpg
a0305530_00284649.jpg
立て看板を読むとまたもや悪人!
しかも平影時と梶原影季って、、、
親子なのにこの場だけは平家を名乗らせてるし、、、
よっぽど嫌われ者だったのでしょか?
でも最後は息子さんたちも一緒だったのだから
やはり人として父としてついて行ける人だったんじゃないかと
思います。

**************************************
梶原景時館跡:鎌倉市浄明寺・十二所あたり

萬福寺:東京都大田区南馬込
都営浅草線西馬込駅から徒歩15分

身代わり地蔵:神奈川県箱根町
芦ノ湖畔バスターミナル前





















[PR]
by midorikojika | 2017-10-29 00:48

木曾義仲とオンナたち

                     
8月の京都旅行で
                     
八坂の塔にある義仲さんの首塚を訪ねました〜
a0305530_22131527.jpg
朝日将軍木曾義仲
征夷大将軍でいたのはわずか10日…

最近、YouTubeで人形時代劇 平家物語を観るのにはまってます。
1話20分弱なので仕事の帰りの電車の中で観るのにちょうどいいんですよ^^
そこで初めて知ったのですが、

おモテになったのね。
義仲さま
知りませんでした。
巴の他にもそんなにあなたに
夢中なオンナがいたんて。。。

その時代、一夫多妻だから
何人もお妾さんがいても不思議ではないのだけど、
そのオンナたちが皆
義仲様と常に一緒にいたいと
武者として戦っていた事。
それがビックリ
この人には命かけて守りたい様な
魅力があったのでしょうか?

巴御前の他に葵御前山吹御前
その人形時代劇ではオンナのジェラシー炸裂の
『怖え〜〜〜』なシーンもありますが、
正妻となる冬姫(藤原伊子)は
切なく描かれています。
お姫様なのでもちろん戦いません。
たった3ヶ月の結婚生活だけど
お互い愛し合い、巴曰く
『殿は生まれて初めての恋をしているのです』と、
これも切ないけれど
子供の頃から兄妹の様に育ち、
義仲の事を知り尽くしている
巴ならではの台詞です。

そのドラマでは冬姫は義仲の後を追って自害しますが
*史実では源通親の側室になり生んだ子供が
後の道元(曹洞宗の開祖)になります。

葵御前は倶利伽羅合戦で討死
山吹御前は病気で最後まで
同行出来なかったそうです。

そして巴御前は
近江国粟津ヶ原での義仲最期の戦いで、味方が残り数騎となっても
義仲とともに死ぬことを願ったが、
義仲に諭され泣く泣く落ち延びて行き、
鎌倉に召し出され和田義盛の妻となり
和田一族が滅ぼされた後には、
倶利伽羅峠などでともに戦った石黒氏を頼って越中に住み、
91歳で亡くなったと伝えられています。
そして親友だった葵御前の近くに眠りたいと
富山県小矢部市の倶利伽羅県定公園に
葵塚と巴塚があります。
が、
伝説の多い、または架空の人物説もある巴
横須賀にもお墓があります。
a0305530_23280443.jpeg
じゃ〜〜ん!
ここは、探しましたよ。
普通に歩いても見つかりません。
民家の裏庭なんです。

ホントにこれが巴御前のお墓か?
私は信じていますけどね。
朝比奈義秀を生んだ説
年齢が合わないから無いとしても
和田義盛と結婚はあったのか?
小田原の善栄寺
巴御前が木曾義仲と和田義盛の菩提を弔うために
創建したと伝えられています。

伝説いっぱいの巴御前
まだ各地にお墓と伝わるものがあるらしいので
これからも訪ねに行きたいです。

********************************

*冬姫が道元の母説も定かではないそうです。
(以下Wikipediaより)
義仲と冬姫の婚姻を語るのは『平家物語』だけで、
九条兼実慈円の書いた『玉葉』『愚管抄』には記述がないため、
『平家物語』の創作で実在の人物ではないとする見解もある

また、道元の両親が誰であるかについては諸説あり、

通親と伊子を両親とする面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性には疑義が呈されている。










[PR]
by midorikojika | 2017-10-25 23:21


愛犬をお供にゆる?く史跡を巡った日記です
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
外部リンク
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧