歴史は勝者のもの・・・とよく言いますね。
吾妻鏡(あずまかがみ)という、鎌倉時代の歴史書は頼朝の挙兵から6代将軍宗尊(むねたか)
(1180〜1266)間の出来事を日記にしてまとめてあるものですが、
作成したのは北条氏なので北条に都合の悪い事は書いてないらしいです。
そして今の国際情勢も同じ様なことをしているな〜と思ってしまいますが、
自分のまずい部分は他人を悪者にしてカバーします。
全ては当てはまらないとは思いますが、
頼朝の重臣だったこのお方も吾妻鏡では極悪人の様に書かれています。
『平家物語』や『義経記』は義経をヒーローに描いているので
ここでも超悪役!
今日お訪ねするのは、
大河ドラマ『義経』でやたらと義経と対立していた中尾彬さん演じる
梶原景時さんです。
歴史に詳しくない方でも、あの大河を観ていたのなら
『あ〜あの嫌なおじさんね!』とわかるはずです。
でもわたしはこの人はホントは良い人だと思うのです。
なぜなら頼朝が挙兵した直後の石橋山合戦のエピソードは有名だけど、
それを恩着せがましく言う事は無かったからです。
『自分はこんなによい事をしているんだ』と声を大にして言う人は
そんなによい事はしていない。。。
モテない男(女もか?)が、たまにモテるとモテ自慢をするのと同じ(笑)
よい事をしている人や、いつもモテている人はそれが当たり前だからわざわざ
自分からアピールしないのです。
(わたしの様に特によい事もしなければモテ話もない場合もありますが^^;)
いきなり話がそれましたが、このお方はそれと先見の目の様なものがあったのではないかとも思います。
窟に隠れる頼朝を見て、一目でその才気を見抜いたからその場で頼朝を助けて
その後忠誠を尽くし、その手足となって働いたのではないでしょうか?
頼朝も、そんな景時に信頼を置き、目付けのような役割を与えたのでしょう。
景時は義経の平家討伐の時だけではなく源氏の世になった後も
他の御家人の言動を常にチェックし、頼朝に報告するという役割を荷い続けます。
それは他の御家人たちからすれば、嫌な存在だったのではないかと思いますが、
多くの武士をまとめる立場にある将軍・頼朝にとっては重要な事で、
これは告げ口ではなく職務上の報告です。
そんな影時なので頼朝が亡くなると立場が危うくなります。
頼朝が亡くなったその年の10月に鎌倉幕府の御家人66人が、
『梶原景時 弾劾状(だんがいじょう)』を作成して
時の将軍・頼家に提出します。
弾劾状とは『失敗や置かした罪を暴いて責めること』
この時はきっと御家人たちが今までの恨みで
梶原景時の悪口をめちゃくちゃ書いたんでしょうね。。。
そして頼朝亡き後の幕府内有力御家人13人の合議制から失脚させられます。
釈明のために頼家に呼び出された影時でしたが
一言の弁明もせずに退室したそうです。
その2ヶ月後鎌倉を出た影時は領地の相模一宮に移り、
幕府に対抗する意思を固めた彼は一族を連れて京に向かいます。
それはすでに譲位していた後鳥羽上皇が、幕府に対抗して院政を行い、
朝廷の復権を図ろうとしていたのでこれに同調して、
上皇から院宣を賜り、甲斐源氏の武田有義(ありよし)を
将軍にして九州に独立した幕府を構えようとしていたと
言われています(これも北条の記述なので定かではない)
しかし1200年1月20日
駿河国清見関まで来たところで付近の御家人から襲撃を受けて
多勢に無勢、殆どの者が倒れ、死を覚悟した影時は
長男・影季(かげすえ)次男・影高とともに
後方の山に身を隠し自刃します。
そんな影時さんの鎌倉の館は、、、
とくに案内も無く、祠と古井戸が残るのみ。なんか悲しくなって来たな〜〜
しかし、何故かお墓が東京都大田区にあります。するすみもいた〜
梶原家のお墓は鎌倉市の梶原深沢小学校の校庭にもあるそうです。
そして箱根で偶然見つけたのが、、、立て看板を読むとまたもや悪人!しかも平影時と梶原影季って、、、親子なのにこの場だけは平家を名乗らせてるし、、、よっぽど嫌われ者だったのでしょか?でも最後は息子さんたちも一緒だったのだからやはり人として父としてついて行ける人だったんじゃないかと思います。
**************************************梶原景時館跡:鎌倉市浄明寺・十二所あたり
萬福寺:東京都大田区南馬込都営浅草線西馬込駅から徒歩15分
身代わり地蔵:神奈川県箱根町芦ノ湖畔バスターミナル前