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2018今年もよろしくおねがいします。

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# by midorikojika | 2018-01-02 14:05

埼玉遠征!斎藤実盛さまに会う前に

とても感銘を受けた武将、
斎藤別当実盛さまに会いに行きました〜〜
今までの記事にも素晴らしい方々ばかりが登場していますが、このお方には泣かせていただきました。

やって来たのは埼玉県熊谷市
都内からだと長時間電車に乗るのと駅からも遠いので今回はワンズのお供は無し^_^
いつもの足軽だけがお供です。
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熊谷駅前のこの銅像は、、、
以前京都で訪ねた熊谷直実公であります。
ここが直実さんの地元なので熊谷寺(ゆうこくじ)など所縁もいろいろとあり、
ゆるキャラも『ニャオざね君』(笑)
ですが、今日お訪ねするのは斎藤実盛さんであります。

駅近くでレンタサイクルを借りて、
そこのオジさんが優しかった〜〜
手袋を貸してくれました( ^ω^ )
しかし、斎藤実盛を知らないようで(^^;;
何処に行くの?と聞くオジさんに
足軽がまた熊谷さんと斎藤さんがゴッチャになって『熊谷さねもり』とか言っちゃうもんだから、
あれはね、「なおざね」って読むんだよって得意気に教えてくれる優しいオジさんでした〜〜
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そんなこんなでかっちょ良すぎるチャリンコでレッツゴーです(^^)
目的地は妻沼聖天山歓喜院
アクセスは熊谷駅からバスで25分(^^)
自転車の方が待ち時間とかないし、
途中色々寄り道も出来るし、、。
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このあたりって、前に忍城に行った時も感じたけど、関東平野なんですよ。
山が全くない、自転車にはありがたい土地です。
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唯一の丘、ではなくて古墳でした。
この辺り、古墳も多いんですよね〜〜

そんな寄り道してたらお昼をとっくに過ぎていてお腹が減ったので実盛さまに会う前に腹ごしらえです。聖天院の参道はさぞかし賑やか、、、ではなかったけど素敵なお店に出会えたのでそこで食事( ^ω^ )
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築100年の蔵を改装したお店♡
お洒落です(^^)
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わたしが食べたのはとろろ御膳
甘味つき♡
足軽はザ・男前(お肉が沢山)
道案内も大切な任務だし、今日はいないけどお犬様の篭持もあるからチカラつけてもらわないとね!

妻沼の聖天様は縁結びのパワースポットで街の活性化を図っているらしく、
観光案内の食事できるお店はやたらと♡型の食べ物つきでした。
このお店は♡の形の人参とかはなかったけどお店の脇にこんなものが!
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顔ハメがあると写真撮らずにはいられないんで^^
ワンズがいないから足軽と交代で1人ずつ撮るさみしさ;;

あ。まるで妻沼の観光記録で長くなってしまいました。

本題は次回へ続きとさせていただきます^^






# by midorikojika | 2017-12-16 14:39

平安 小さな恋の物語 大姫と義高に会いに行って来ました〜

北条泰時のお墓がある常楽寺の裏山に小さな塚があります。
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ここは木曽塚

木曾義高
以前訪ねた木曽義仲の嫡男の塚です。
源氏って哀しい一族ですね。
このお方のおじいちゃんである
源義賢(よしかた)は兄の義朝(よしとも)の命令により
悪源太と呼ばれる源義平(義朝の長男であり頼朝の兄)に殺されています。
悪源太は将来父の仇として恨まれるのを阻止する為に
当時2歳の駒王丸(後の義仲)も殺す捜索をはじめますが
上洛せよの命を受け、配下の畠山重能にそれを託して旅立ちます。
ほどなく駒王丸は見つかりますが、まだ2歳の子を殺すことが出来ない畠山重能は
斉藤実盛に託します。
彼も困ってしまい、自分の所にしばらくかくまった後に
信州木曽の中原兼遠(なかはらかねとお)に預けます。
木曽の山奥なら見つからない。そんな計らいがあったのだと思われます。
兼遠は自分の子供と同じ様にして駒王を育てます。
それが後の木曾義仲です。
源義仲が木曽と呼ばれるのはそんな訳です。
そして義仲の子供が今日会いに行った義高です。


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ではなぜまたまた木曾義仲の子が
この鎌倉に葬られているか?


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それは以仁王(もちひとおう)が平家討伐の令旨(りょうじ=天皇一族の命令書)を
各地の反平家勢力へ向けて発し、
それを受けた伊豆の頼朝、木曽の義仲がほぼ同時期に兵をあげたことから始まります。

頼朝は関東、義仲は北陸から平家との合戦を進めて行きます。

その翌年、平清盛が死去すると
平家打倒の機運は高まり、同時に源氏内での
対決が始まります。
源氏の大将争いです。

そこで和睦の条件として
義仲の嫡男、義高と頼朝の長女、大姫の婚約話が持ち上がります。

まぁ、、、婚約という名の人質ですね。
なんせ、義高10歳、大姫5〜6歳ですから〜

そして義高は鎌倉へやって来ます。
義仲はその後1日でも早く平家を打ち破って
源氏の大将は自分だと証明するために
(そうしないと義高を取り戻せないので)
次々合戦で勝利し、
平家を都落ちに追い込み、京へ入ります。
そしてあの後白河法王を脅してまで
無理矢理、征夷大将軍の座につきます。
この焦りがいけなかった。。。

義仲の行動を恐れた後白河法王は
頼朝に義仲追討の院宣を出します。
そして義仲は
義経軍に敗れ命を落とします。

頼朝は義仲を滅ぼしてすぐに
義高も殺そうとします。
あれ?
このシュチエーション、冒頭でも書いた、
悪源太が駒王丸も殺そうと
捜索した話と似てるな??
そう、
源氏ってこんな事ばっかりしてるんです。
もともと、
悪源太がなぜ叔父の義賢を殺したか?
それも簡単に言えば悪源太と頼朝の父である
義朝との領地争いで、
関東に勢力をのばしたい義朝にとって
秩父重隆の養子になって
上野から武蔵一体を仕切っていた
義賢は邪魔者だったからだと思われます。

そんな哀しい源氏です。

しかし、
頼朝には大きな誤算がありました。
政略結婚という名の人質であった義高を
兄の様にしたい、
幼いながらも恋をしていた大姫

義高が父によって殺された事を知ると
頼朝と話す事もなくなり食べ物も口にせず、
やがて床に伏せる様になり、
頼朝と政子夫婦は、心配して
義仲が幼い頃に別れた妹の宮菊を鎌倉に呼んで手厚くもてなしたり、
義高の母の妹でもある巴御前を鎌倉に招いたり
もちろん義高の供養塔も建てたり、
最悪なのは義高を討ち取った
藤内光澄を斬罪にしたり
藤内さんにしてみれば
そんな理不尽な話ないですよね〜
命令を忠実に守っただけなのに(泣)

しかしそんなのことをしても
大姫の義高への思いは募るばかりで
年頃になっての縁談話には
結婚するなら自殺すると
頑に拒み、
とうとう二十歳に満たない若さで大姫は生涯を閉じます。

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こちらは大姫のお墓と伝えられています。
義高の塚のすぐ近くです。
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ここは扇ガ谷の岩船地蔵堂
堂内には大姫の守り本尊とされる地蔵菩薩が祀られています。
あまりに可哀想な大姫の死を悼んだ
北条、三浦、梶原など多くの御家人がこの谷に
野辺送りをしたと伝えられています。
時代に翻弄された
可哀想な平安の小さな恋です。

わたしは鎌倉散策がライフワークとなっていますが
ここを通る時は
心の中でそっと手を合わせます。
ちなみにお供の愛犬バンビ(女の子)も
ここでの写真撮影はちょっと寂しそうな顔をします^^;
(わんこながらも大姫の気持ちがわかるのかしら?)

*****************************
木曽塚:JR大船駅からバス 常楽寺下車徒歩5分 常楽寺裏

岩船地蔵堂:JR鎌倉駅より徒歩5分

義高の父、木曾義仲についてはこちら
↓↓↓↓







# by midorikojika | 2017-11-29 01:37 | 平安時代

北条泰時に会いに常楽寺を訪ねました〜



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とっても素敵なお寺でした〜^^

ここは鎌倉幕府三代執権の北条泰時さんが
妻の母の供養のために粟船御堂を建てたのが始まりで、
自らも眠るお寺です。
この妻とは矢部禅尼ではなく、彼女とは離縁してから結婚した妻です。
矢部禅尼とは長男時氏が生まれてから時期はわかりませんが9年後に次男時実が生まれるまでには
お別れしちゃっているんです。
理由は謎だけれども
泰時と矢部禅尼は離縁後も良い関係を保っています。


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この奥に見えるのが仏殿。
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鎌倉のお寺の質素さが私は好きです。
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泰時さんのお墓は本堂裏にあります。
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三基並んでいますがこちらが泰時さん

このお方は北条執権3代目にして
一番良い働きをしています。(と、わたしは思う)
誰でも名前だけは知っている
御成敗式目(武士のための法令)を制定
連署(れんしょ)の設置(執権を補佐する役)
評定衆
(執権、連署の下に11人の有力御家人の合議制)
和賀江嶋の築港を許可
巨福呂坂、朝夷奈切通を開く
などなど^^

それとこのお方が執権でいる間、
血なまぐさい御家人潰しがない
やっぱり愛と平和でしょ〜^^
(父義時の時代に加担してますけどね。)

そんな泰時さん
父、義時が亡くなり翌年、
叔母の尼将軍、政子が亡くなると、
幕府を大倉から宇都宮辻子(うつのみやずし)に移します。
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ここが宇都宮辻子幕府跡
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今は稲荷が残るのみです。

ここで気持ち新たに新しい幕府を築きたかったのでしょうか?

しかしその11年後、若宮大路に幕府を移します
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すぐご近所なんですけどね。
宇都宮辻子では良い事がなかったらしい・・・

またまたこの目と鼻の先に泰時さんのお家があります。
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鶴岡八幡宮の赤い鳥居のすぐ側の
侍気分』という、戦国や幕末グッズのお店の前にこんなにしっかり
残って観れるようになっております。
ここは、このビルのオーナーさんが貴重な遺跡を残すためにお金を出して
この様な形に保存してくれたそうです。
感謝ですね。
これも見応えがあるけど、
『侍気分』の店長さん
すごく歴史に詳しくてお話すると楽しいです^^

話がそれましたが、泰時さんのこと
もっと知りたいですね。

鎌倉時代は知れば知るほど面白いです。

***********************
常楽寺: JR北鎌倉駅または大船駅から徒歩15分強
または大船駅からバス(常楽寺下車徒歩5分)

宇都宮辻子幕府跡:鎌倉駅より徒歩10分
若宮大路幕府跡:鎌倉駅より徒歩10分























# by midorikojika | 2017-11-04 23:33 | 鎌倉時代

悪役だけど本当は良い人!梶原景時のお家を訪ねました〜



歴史は勝者のもの・・・とよく言いますね。
吾妻鏡(あずまかがみ)という、鎌倉時代の歴史書は頼朝の挙兵から6代将軍宗尊(むねたか)
(1180〜1266)間の出来事を日記にしてまとめてあるものですが、
作成したのは北条氏なので北条に都合の悪い事は書いてないらしいです。
そして今の国際情勢も同じ様なことをしているな〜と思ってしまいますが、
自分のまずい部分は他人を悪者にしてカバーします。
全ては当てはまらないとは思いますが、
頼朝の重臣だったこのお方も吾妻鏡では極悪人の様に書かれています。

『平家物語』や『義経記』は義経をヒーローに描いているので
ここでも超悪役
今日お訪ねするのは、
大河ドラマ『義経』でやたらと義経と対立していた中尾彬さん演じる
梶原景時さんです。
歴史に詳しくない方でも、あの大河を観ていたのなら
『あ〜あの嫌なおじさんね!』とわかるはずです。

でもわたしはこの人はホントは良い人だと思うのです。
なぜなら頼朝が挙兵した直後の石橋山合戦のエピソードは有名だけど、
それを恩着せがましく言う事は無かったからです。
『自分はこんなによい事をしているんだ』と声を大にして言う人は
そんなによい事はしていない。。。
モテない男(女もか?)が、たまにモテるとモテ自慢をするのと同じ(笑)
よい事をしている人や、いつもモテている人はそれが当たり前だからわざわざ
自分からアピールしないのです。
(わたしの様に特によい事もしなければモテ話もない場合もありますが^^;)

いきなり話がそれましたが、このお方はそれと先見の目の様なものがあったのではないかとも思います。
窟に隠れる頼朝を見て、一目でその才気を見抜いたからその場で頼朝を助けて
その後忠誠を尽くし、その手足となって働いたのではないでしょうか?

頼朝も、そんな景時に信頼を置き、目付けのような役割を与えたのでしょう。

景時は義経の平家討伐の時だけではなく源氏の世になった後も

他の御家人の言動を常にチェックし、頼朝に報告するという役割を荷い続けます。

それは他の御家人たちからすれば、嫌な存在だったのではないかと思いますが、

多くの武士をまとめる立場にある将軍・頼朝にとっては重要な事で、

これは告げ口ではなく職務上の報告です。


そんな影時なので頼朝が亡くなると立場が危うくなります。

頼朝が亡くなったその年の10月に鎌倉幕府の御家人66人が、

『梶原景時 弾劾状(だんがいじょう)』を作成して

時の将軍・頼家に提出します。

弾劾状とは『失敗や置かした罪を暴いて責めること』

この時はきっと御家人たちが今までの恨みで

梶原景時の悪口をめちゃくちゃ書いたんでしょうね。。。

そして頼朝亡き後の幕府内有力御家人13人の合議制から失脚させられます。


釈明のために頼家に呼び出された影時でしたが

一言の弁明もせずに退室したそうです。

その2ヶ月後鎌倉を出た影時は領地の相模一宮に移り、

幕府に対抗する意思を固めた彼は一族を連れて京に向かいます。

それはすでに譲位していた後鳥羽上皇が、幕府に対抗して院政を行い、

朝廷の復権を図ろうとしていたのでこれに同調して、

上皇から院宣を賜り、甲斐源氏の武田有義(ありよし)

将軍にして九州に独立した幕府を構えようとしていたと

言われています(これも北条の記述なので定かではない)


しかし1200年1月20日

駿河国清見関まで来たところで付近の御家人から襲撃を受けて

多勢に無勢、殆どの者が倒れ、死を覚悟した影時は

長男・影季(かげすえ)次男・影高とともに

後方の山に身を隠し自刃します。


そんな影時さんの鎌倉の館は、、、

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とくに案内も無く、
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祠と
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古井戸が残るのみ。
なんか悲しくなって来たな〜〜

しかし、
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何故かお墓が東京都大田区にあります。
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するすみもいた〜

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梶原家のお墓は鎌倉市の梶原
深沢小学校の校庭にもあるそうです。

そして箱根で偶然見つけたのが、、、
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立て看板を読むとまたもや悪人!
しかも平影時と梶原影季って、、、
親子なのにこの場だけは平家を名乗らせてるし、、、
よっぽど嫌われ者だったのでしょか?
でも最後は息子さんたちも一緒だったのだから
やはり人として父としてついて行ける人だったんじゃないかと
思います。

**************************************
梶原景時館跡:鎌倉市浄明寺・十二所あたり

萬福寺:東京都大田区南馬込
都営浅草線西馬込駅から徒歩15分

身代わり地蔵:神奈川県箱根町
芦ノ湖畔バスターミナル前





















# by midorikojika | 2017-10-29 00:48

ゆるく楽しく歴史も学びながら皆さんに鎌倉をご案内してます。日記はご案内以外に歴史の逸話etc


by 子鹿御前