ゆる歴散歩♪



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阿仏尼を訪ねて鎌倉



今日はなぜ鎌倉に冷泉家?
冷泉為相(冷泉家の祖)のお母さん
阿仏尼を訪ね歩きました〜^^
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ここはからやってきた阿仏尼が住んだと言われている場所です。
阿仏尼はあの小倉百人一首の選者
藤原定家の子、
為家の晩年の妻。
その子供が冷泉為相です。

どうして阿仏尼が京から鎌倉へ来たか?
為家には前妻との間に何人か子供がいるので
遅く生まれた為相の将来を心配した為家は
一旦長子為氏に譲った細川荘を為相への相続に
切り替えます。
為氏はその決定を受け入れますが
為家が亡くなるとそれを無視。
埒があかずに阿仏尼は訴訟を決心して
鎌倉に下向したのでした。
その道中見たものや
鎌倉に来てからの生活を
書いたものが十六夜日記
(いざよい日記)です。
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こちらは十六夜日記にも出て来る極楽寺です。
おうちは江の電の極楽寺駅から
稲村ケ崎に向かう線路沿いなので
このあたりを歩いていたのでしょう。
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こちらは月影地蔵
元は阿仏尼の邸宅にあったものを
移したらしいです。

阿仏尼は安嘉門院のもとに女房として
出仕していたり、
為家との出逢いが
源氏物語』を介してというように、
優美な世界の人でした。
鎌倉へ下ったのは60歳くらいのこと
その時代の60歳って
今で言えばどのくらいだろう?
かなりの高齢者のはずです。
それを京から鎌倉へ来て訴訟なんて
人生って何が起こるかわからないものですね。
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その息子の為相は母阿仏尼の後を追って
鎌倉へ下り住んだのがこの藤ヶ谷
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お墓は浄光明寺の裏山にあります。
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為相のお墓からの眺めです。
向こうに海まで見渡せますがその手前から
踏切の音が聞こえ電車も見えます。
阿仏尼のお墓はその線路沿いにあり、
母のお墓をいつも眺められるようにと
この場所に為相のお墓を造ったと
いわれています。
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阿仏尼の生きている間に
訴訟の決着はつかず、
20年も争われて為相の勝利となります。
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ここは裁許橋(さいきょはし)
この近くに問注所(今で言う裁判所)が
近くにありました。
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今の御成小学校の辺りに
問注所があったそうです。
門だけ昔のデザインを残してあります。
ここに通っていたんでしょうか?
阿仏尼さん

問注所と言えば前回日記の熊谷直実も
ここで所領を巡る裁判をしたってことですね。
あ〜いろんな歴史のシーンがこの場で・・・
想像するだけでも楽しくなる鎌倉散歩でした〜


阿仏尼邸宅跡 江の電『極楽寺』より徒歩5分
月影地蔵 反対方向に徒歩5分
浄光明寺鎌倉駅西口から徒歩15分
阿仏尼墓
鎌倉駅西口から徒歩15分
英勝寺並びやぐらの中










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by midorikojika | 2017-09-24 02:11

平景清を訪ねて化粧坂


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それは鎌倉の化粧坂の入り口にひっそりとあります。
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意識しなければ通り過ぎてしまうようなそれは
水艦景清大居士
ここは平景清の最後の地であります。
平景清
平家に仕えて都落ちに従ったため、
平と呼ばれていますが、
藤原秀郷の子孫で伊藤景清とも言います。
大河ドラマの平清盛ではこのお方のお父さんがずっと平家に仕えていました。
俳優の藤本隆宏さん演じる
伊藤忠清は素敵だった〜♡

余談ですが第47回『宿命の対決』で
富士川の戦いで水鳥の飛び立つ音を敵襲と
勘違いして逃げ出して総崩れ・・・
何ともトホホな負け戦をして帰った
維盛に激怒した、
その頃はクソジジイ化していた清盛
忠清の首をも刎ねようとした
その時、

『死ぬる前に申し上げたい義がござりまする。

殿は今、維盛様に仰せになりました。

それでも平家の男の子かと。

戦というものをご存じなく、兵の心を知らず。遊び女を陣内に招き入れる。

それが紛うことなき

平家の男の子の姿にございます。

平家を公卿にまで高めた。

武士ではできなかったでしょう。

殿、平家はもはや武門ではござりませぬ。

殿ご自身がもはや武士ではござりませぬ。

殿が目指した武士の世は、

武士のままでは造れぬものにござりました。』


どうぞ、この首、刎ねてくださりませと忠清。

清盛が忠清の首を刎ねようとして

太刀を振り上げる。

しかし、、、

剣の重さに負けて尻餅してしまう清盛

もう身も心も武士ではない

哀しい清盛爺(泣)


ここ、、、名場面です!


話がずれましたがこの景清さん

何故この鎌倉に?

景清の伝説は数多く、

歌舞伎や浄瑠璃にも多く使われています。

ここの洞窟の牢に

捕らえられていた説もありますが、

私が信じている説を

今日はご紹介させていただきます。


平景清(伊藤景清)

上総七郎(上総介忠清の七男という意味)

悪七兵衛(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛だったそうです。

この時代の『悪』とか『鬼』とかは

悪者的な意味ではなく

そのくらい強いって言う意味で使われます。


源平合戦の中でも扇の的で有名な

屋島の戦い

ドラマなどではだいたい

那須与一が見事に扇を撃ち落とし

源氏かっこい〜〜で終わるけど、

実は続きがあるんです

与一が見事に扇を撃ち落とした直後に

あっぱれ!と、ばかりに

船上でお祝いの舞いを

始めた平家方の男へ

『あれも射よ!』と、義経

『ええっ〜〜〜?』

『勘弁(汗)』

みたいな与一さんの心のうちが

見えてきそうなこの場面。

与一だってこんな賭けみたいな事ホントはしたくなかったはず、、、

まるで弓の名手ならこの人!と

登場したかの様にドラマでは描かれていますが

実のところ畠山重忠に断られ

那須為高(与一の兄)にも断られ

三人目の与一に『これ断るなら国へ帰れ!』と

義経に切れられて渋々の登場だった訳で、、、

またもや、嫌だけど心を鬼にして

放った矢は男の首に命中。


これをきっかけに再び戦闘がはじまり

景清は逃げる源氏側の美尾屋十郎の

甲の(しころ=首を保護するために甲の後ろに垂れている部分)を

素手で掴んで引きちぎり、

十朗は側にいた馬の影に隠れたものの

深追いはせず、

引きちぎった錣を天高くかざしながら

『我こそは都の童も

悪の七兵衛と呼ぶ上総の景清よ!』

と、名乗りをあげるのです。

そのあとも義経の

ちょっと格好悪いエピソードがあるけど

切りがないのでまたの機会にしますが

景清はこのあと壇ノ浦の戦いでも

上手く戦場を逃れて生き延び、

兄・忠光源頼朝の命を狙います。

しかし忠光は

鎌倉に建設中だった永福寺の工事現場に

片目に魚の鱗を入れた姿で侵入して

頼朝暗殺の機会を狙いましたが

素性がバレて処刑されてしまいます。


そして景清は東大寺大仏殿に

頼朝がお参りするのを

狙って暗殺計画を企てるも見つかってとうとう捕らえられてしまいます。

しかしすぐに斬首される事は無く、

主君を思う武士の誉れとして

鎌倉武士の同情を買い、

鎌倉へ送られ武闘派で知られる和田義盛

預けられます。

しかし流石に悪七兵衛!

景清は義盛邸の庭で馬を乗り回し、

酒を飲んでは大暴れ・・・

豪快すぎます!

困り果てた義盛は頼朝に相談して

八田知家に預かり役を代わってもらいます。

義盛と同じく武闘派で

敵ながらも豪快で大胆な景清に

良い印象を持っていた

知家は義盛以上に親切に

敵に捕らえられ、

その地で保護されるという

惨めで哀しい気持ちを悟られまいとした

景清の横暴ぶり

何一つ文句も言わずにまるで息子の様に

もてなしてくれました。


その優しさに

今まで張りつめていた景清の心は

見事に崩れました。

やがて彼は化粧坂の中腹にある洞窟に籠り

それでも毎日八田家から運ばれて来る食事には

一切手を付けずに

ひたすら読経を続け

勇猛と称された身体は見る影もなく

やせ細り、

1195年3月7日

その命が尽きるのです。


長くなりましたが上の写真が化粧坂入り口の洞窟跡の碑です。

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現在多くの観光客が訪れる化粧坂は
かなり昔の面影が残る場所だと思われます。
鎌倉七切り通しのひとつで、防御上わざと登りにくくしてあるのと、
名前の由来は源平合戦で平家の武将の首実検をここで行う際、
首を化粧したからだそうで( ꒪⌓꒪)( ꒪⌓꒪)( ꒪⌓꒪)

多くの仲間達が首実検されたこの地で
読経を続けた景清
源平合戦での出来事や逃亡生活が
走馬灯の様に駆け巡っていたのでしょうか?

***化粧坂(けわいざか/けしょうざか)***
鎌倉駅または北鎌倉駅より徒歩












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by midorikojika | 2017-08-20 21:40

怪しい坊さん 文覚を訪ねて伊豆と鎌倉




約1年8ヶ月ぶりの更新です^^;;

伊豆へ頼朝流人時代を訪ねた旅の2日目は雨が上がりレンタサイクルでぐる〜〜〜っと♡
しかし暑かった〜〜〜
訪ねた文覚の毘沙門堂は坂道を
えっちらおっちら自転車で登ったあと、
歩きで山道を登り、、、
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ありました。
ここから更に階段を上ります。
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ここがまた、蒸し暑くてTシャツ絞れるくらい汗かきました;;;
更に上へ登り、、、
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到着!
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苔の綺麗なお庭です。
山奥すぎて人も来ないのか?
手入れはあんまりされてないようです。

でも、この山奥感や人も近寄らない感が、文覚にはぴったりと
はまると言うか、、、
この文覚さん
頼朝に平家を倒すべく
挙兵を決意させたと言う、、、
しかも義朝の髑髏持参の〜〜〜

いちいちやる事過激な坊さんで、
まずは出家したいきさつが凄くて、
もとは北面の武士
(院御所を守る武士←何事もなければ暇そう
たしか大河ドラマの平清盛も最初はこの仕事をしていてとっても暇そうでした)が、
若き文覚、遠藤盛遠(えんどうもりとお)
人妻だった袈裟御前に恋をします。

そして何とかその思いを遂げたいと迫る文覚に彼女は
『夫を殺してください』と、言います。
文覚は袈裟御前の夫の殺害を計画
ある夜こっそりと屋敷に侵入して
暗闇の中で夫を斬り殺しました。
ところが!
その斬った首を確かめるとそれは
夫ではなく男装した袈裟御前だったのです。

文覚と夫との間で苦しんだ彼女の決断は夫のふりをして文覚に斬り殺される事でした(泣)
彼女の菩提を弔う為に出家した文覚
(北面の武士が叶わぬ恋のあげく出家したってどっかで見た様な??
またまた大河ドラマの平清盛だけど西行の出家の理由が待賢門院に失恋した事でしたよね?
史実ではそれが美福門院とも上西門院とも、
または全く違う理由とも言われていますが)

そして荒行という荒行をかさねた文覚
京に帰ると評判の験者となっていて
神護寺の修復のための勧進帳をもって
あの後白河法王へ直談判!!
が、
彼の逆鱗に触れてしまって寄付どころか
伊豆へ流罪となり〜の、、、
そこで流人同士出会ってしまったのが
頼朝なのでした〜
(後白河法王の逆鱗に触れるエピソードがまたお互いはまり過ぎていて面白いのですがそれはまた機会があれば・・・)

そんな文覚
頼朝を挙兵へと決意させた時に
持参したものが義朝の髑髏かどうかは
定かではないけれど、、、
鎌倉の勝長寿院
ほど近くにおうちがありました。
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勝長寿院は頼朝が
義朝の菩提を弔うために建立したお寺で
義朝と一緒に亡くなった鎌田政清のお墓もここにあります。
(今は碑とそれぞれのお墓だけ残ってます)
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知らないと通り過ぎてしまうほどの小ささ

一時は実朝と政子も
ここに葬られたそうですが、
今は寿福寺
(政子は安養院にもお墓があります)

その後の文覚は
頼朝の護持僧となり活躍したそうな・・・
しかし頼朝亡き後は
また波乱の人生が待ち受け、
最後は流刑地の対馬へ行く途中、太宰府で命を落としたそうです。

いや〜〜映画の一本でも作れそうな
ドラマチックな人生だな〜と、
検索してみたらありました〜
地獄門
昭和28年って、、、かなり古いですね。。。
他、江戸時代には
歌舞伎や人形浄瑠璃の
題材にもなったようです。

京都には文覚と袈裟御前縁の
『恋塚寺』があります。
行ってみた〜〜〜い!!











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by midorikojika | 2017-07-08 00:42


愛犬をお供にゆる?く史跡を巡った日記です
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