ゆる歴散歩♪



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北条泰時に会いに常楽寺を訪ねました〜



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とっても素敵なお寺でした〜^^

ここは鎌倉幕府三代執権の北条泰時さんが
妻の母の供養のために粟船御堂を建てたのが始まりで、
自らも眠るお寺です。
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この奥に見えるのが仏殿。
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鎌倉のお寺の質素さが私は好きです。
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泰時さんのお墓は本堂裏にあります。
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三基並んでいますがこちらが泰時さん

このお方は北条執権3代目にして
一番良い働きをしています。(と、わたしは思う)
誰でも名前だけは知っている
御成敗式目(武士のための法令)を制定
連署(れんしょ)の設置(執権を補佐する役)
評定衆
(執権、連署の下に11人の有力御家人の合議制)
和賀江嶋の築港を許可
巨福呂坂、朝夷奈切通を開く
などなど^^

それとこのお方が執権でいる間、
血なまぐさい御家人潰しがない
やっぱり愛と平和でしょ〜^^
(父義時の時代に加担してますけどね。)

そんな泰時さん
父、義時が亡くなり翌年、
叔母の尼将軍、政子が亡くなると、
幕府を大倉から宇都宮辻子(うつのみやずし)に移します。
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ここが宇都宮辻子幕府跡
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今は稲荷が残るのみです。

ここで気持ち新たに新しい幕府を築きたかったのでしょうか?

しかしその11年後、若宮大路に幕府を移します
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すぐご近所なんですけどね。
宇都宮辻子では良い事がなかったらしい・・・

またまたこの目と鼻の先に泰時さんのお家があります。
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鶴岡八幡宮の赤い鳥居のすぐ側の
侍気分』という、戦国や幕末グッズのお店の前にこんなにしっかり
残って観れるようになっております。
これも見応えがあるけど、
『侍気分』の店長さん
すごく歴史に詳しくてお話すると楽しいです^^

話がそれましたが、泰時さんのこと
もっと知りたいですね。

鎌倉時代は知れば知るほど面白いです。

***********************
常楽寺: JR北鎌倉駅または大船駅から徒歩15分強
または大船駅からバス(常楽寺下車徒歩5分)

宇都宮辻子幕府跡:鎌倉駅より徒歩10分
若宮大路幕府跡:鎌倉駅より徒歩10分























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by midorikojika | 2017-11-04 23:33 | 鎌倉時代

悪役だけど本当は良い人!梶原景時のお家を訪ねました〜



歴史は勝者のもの・・・とよく言いますね。
吾妻鏡(あずまかがみ)という、鎌倉時代の歴史書は頼朝の挙兵から6代将軍宗尊(むねたか)
(1180〜1266)間の出来事を日記にしてまとめてあるものですが、
作成したのは北条氏なので北条に都合の悪い事は書いてないらしいです。
そして今の国際情勢も同じ様なことをしているな〜と思ってしまいますが、
自分のまずい部分は他人を悪者にしてカバーします。
全ては当てはまらないとは思いますが、
頼朝の重臣だったこのお方も吾妻鏡では極悪人の様に書かれています。

『平家物語』や『義経記』は義経をヒーローに描いているので
ここでも超悪役
今日お訪ねするのは、
大河ドラマ『義経』でやたらと義経と対立していた中尾彬さん演じる
梶原景時さんです。
歴史に詳しくない方でも、あの大河を観ていたのなら
『あ〜あの嫌なおじさんね!』とわかるはずです。

でもわたしはこの人はホントは良い人だと思うのです。
なぜなら頼朝が挙兵した直後の石橋山合戦のエピソードは有名だけど、
それを恩着せがましく言う事は無かったからです。
『自分はこんなによい事をしているんだ』と声を大にして言う人は
そんなによい事はしていない。。。
モテない男(女もか?)が、たまにモテるとモテ自慢をするのと同じ(笑)
よい事をしている人や、いつもモテている人はそれが当たり前だからわざわざ
自分からアピールしないのです。
(わたしの様に特によい事もしなければモテ話もない場合もありますが^^;)

いきなり話がそれましたが、このお方はそれと先見の目の様なものがあったのではないかとも思います。
窟に隠れる頼朝を見て、一目でその才気を見抜いたからその場で頼朝を助けて
その後忠誠を尽くし、その手足となって働いたのではないでしょうか?

頼朝も、そんな景時に信頼を置き、目付けのような役割を与えたのでしょう。

景時は義経の平家討伐の時だけではなく源氏の世になった後も

他の御家人の言動を常にチェックし、頼朝に報告するという役割を荷い続けます。

それは他の御家人たちからすれば、嫌な存在だったのではないかと思いますが、

多くの武士をまとめる立場にある将軍・頼朝にとっては重要な事で、

これは告げ口ではなく職務上の報告です。


そんな影時なので頼朝が亡くなると立場が危うくなります。

頼朝が亡くなったその年の10月に鎌倉幕府の御家人66人が、

『梶原景時 弾劾状(だんがいじょう)』を作成して

時の将軍・頼家に提出します。

弾劾状とは『失敗や置かした罪を暴いて責めること』

この時はきっと御家人たちが今までの恨みで

梶原景時の悪口をめちゃくちゃ書いたんでしょうね。。。

そして頼朝亡き後の幕府内有力御家人13人の合議制から失脚させられます。


釈明のために頼家に呼び出された影時でしたが

一言の弁明もせずに退室したそうです。

その2ヶ月後鎌倉を出た影時は領地の相模一宮に移り、

幕府に対抗する意思を固めた彼は一族を連れて京に向かいます。

それはすでに譲位していた後鳥羽上皇が、幕府に対抗して院政を行い、

朝廷の復権を図ろうとしていたのでこれに同調して、

上皇から院宣を賜り、甲斐源氏の武田有義(ありよし)

将軍にして九州に独立した幕府を構えようとしていたと

言われています(これも北条の記述なので定かではない)


しかし1200年1月20日

駿河国清見関まで来たところで付近の御家人から襲撃を受けて

多勢に無勢、殆どの者が倒れ、死を覚悟した影時は

長男・影季(かげすえ)次男・影高とともに

後方の山に身を隠し自刃します。


そんな影時さんの鎌倉の館は、、、

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とくに案内も無く、
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祠と
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古井戸が残るのみ。
なんか悲しくなって来たな〜〜

しかし、
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何故かお墓が東京都大田区にあります。
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するすみもいた〜

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梶原家のお墓は鎌倉市の梶原
深沢小学校の校庭にもあるそうです。

そして箱根で偶然見つけたのが、、、
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立て看板を読むとまたもや悪人!
しかも平影時と梶原影季って、、、
親子なのにこの場だけは平家を名乗らせてるし、、、
よっぽど嫌われ者だったのでしょか?
でも最後は息子さんたちも一緒だったのだから
やはり人として父としてついて行ける人だったんじゃないかと
思います。

**************************************
梶原景時館跡:鎌倉市浄明寺・十二所あたり

萬福寺:東京都大田区南馬込
都営浅草線西馬込駅から徒歩15分

身代わり地蔵:神奈川県箱根町
芦ノ湖畔バスターミナル前





















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by midorikojika | 2017-10-29 00:48

阿仏尼を訪ねて鎌倉



今日はなぜ鎌倉に冷泉家?
冷泉為相(冷泉家の祖)のお母さん
阿仏尼を訪ね歩きました〜^^
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ここはからやってきた阿仏尼が住んだと言われている場所です。
阿仏尼はあの小倉百人一首の選者
藤原定家の子、
為家の晩年の妻。
その子供が冷泉為相です。

どうして阿仏尼が京から鎌倉へ来たか?
為家には前妻との間に何人か子供がいるので
遅く生まれた為相の将来を心配した為家は
一旦長子為氏に譲った細川荘を為相への相続に
切り替えます。
為氏はその決定を受け入れますが
為家が亡くなるとそれを無視。
埒があかずに阿仏尼は訴訟を決心して
鎌倉に下向したのでした。
その道中見たものや
鎌倉に来てからの生活を
書いたものが十六夜日記
(いざよい日記)です。
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こちらは十六夜日記にも出て来る極楽寺です。
おうちは江の電の極楽寺駅から
稲村ケ崎に向かう線路沿いなので
このあたりを歩いていたのでしょう。
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こちらは月影地蔵
元は阿仏尼の邸宅にあったものを
移したらしいです。

阿仏尼は安嘉門院のもとに女房として
出仕していたり、
為家との出逢いが
源氏物語』を介してというように、
優美な世界の人でした。
鎌倉へ下ったのは60歳くらいのこと
その時代の60歳って
今で言えばどのくらいだろう?
かなりの高齢者のはずです。
それを京から鎌倉へ来て訴訟なんて
人生って何が起こるかわからないものですね。
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その息子の為相は母阿仏尼の後を追って
鎌倉へ下り住んだのがこの藤ヶ谷
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お墓は浄光明寺の裏山にあります。
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為相のお墓からの眺めです。
向こうに海まで見渡せますがその手前から
踏切の音が聞こえ電車も見えます。
阿仏尼のお墓はその線路沿いにあり、
母のお墓をいつも眺められるようにと
この場所に為相のお墓を造ったと
いわれています。
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阿仏尼の生きている間に
訴訟の決着はつかず、
20年も争われて為相の勝利となります。
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ここは裁許橋(さいきょはし)
この近くに問注所(今で言う裁判所)が
ありました。
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今の御成小学校の辺りです。

問注所と言えば前回日記の熊谷直実も
ここで所領を巡る裁判をしたってことですね。
あ〜いろんな歴史のシーンがこの場で・・・
想像するだけでも楽しくなる鎌倉散歩でした〜


阿仏尼邸宅跡 江の電『極楽寺』より徒歩5分
月影地蔵 反対方向に徒歩5分
浄光明寺鎌倉駅西口から徒歩15分
阿仏尼墓
鎌倉駅西口から徒歩15分
英勝寺並びやぐらの中










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by midorikojika | 2017-09-24 02:11

平景清を訪ねて化粧坂


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それは鎌倉の化粧坂の入り口にひっそりとあります。
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意識しなければ通り過ぎてしまうようなそれは
水艦景清大居士
ここは平景清の最後の地であります。
平景清
平家に仕えて都落ちに従ったため、
平と呼ばれていますが、
藤原秀郷の子孫で伊藤景清とも言います。
大河ドラマの平清盛ではこのお方のお父さんがずっと平家に仕えていました。
俳優の藤本隆宏さん演じる
伊藤忠清は素敵だった〜♡

余談ですが第47回『宿命の対決』で
富士川の戦いで水鳥の飛び立つ音を敵襲と
勘違いして逃げ出して総崩れ・・・
何ともトホホな負け戦をして帰った
維盛に激怒した、
その頃はクソジジイ化していた清盛
忠清の首をも刎ねようとした
その時、

『死ぬる前に申し上げたい義がござりまする。

殿は今、維盛様に仰せになりました。

それでも平家の男の子かと。

戦というものをご存じなく、兵の心を知らず。遊び女を陣内に招き入れる。

それが紛うことなき

平家の男の子の姿にございます。

平家を公卿にまで高めた。

武士ではできなかったでしょう。

殿、平家はもはや武門ではござりませぬ。

殿ご自身がもはや武士ではござりませぬ。

殿が目指した武士の世は、

武士のままでは造れぬものにござりました。』


どうぞ、この首、刎ねてくださりませと忠清。

清盛が忠清の首を刎ねようとして

太刀を振り上げる。

しかし、、、

剣の重さに負けて尻餅してしまう清盛

もう身も心も武士ではない

哀しい清盛爺(泣)


ここ、、、名場面です!


話がずれましたがこの景清さん

何故この鎌倉に?

景清の伝説は数多く、

歌舞伎や浄瑠璃にも多く使われています。

ここの洞窟の牢に

捕らえられていた説もありますが、

私が信じている説を

今日はご紹介させていただきます。


平景清(伊藤景清)

上総七郎(上総介忠清の七男という意味)

悪七兵衛(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛だったそうです。

この時代の『悪』とか『鬼』とかは

悪者的な意味ではなく

そのくらい強いって言う意味で使われます。


源平合戦の中でも扇の的で有名な

屋島の戦い

ドラマなどではだいたい

那須与一が見事に扇を撃ち落とし

源氏かっこい〜〜で終わるけど、

実は続きがあるんです

与一が見事に扇を撃ち落とした直後に

あっぱれ!と、ばかりに

船上でお祝いの舞いを

始めた平家方の男へ

『あれも射よ!』と、義経

『ええっ〜〜〜?』

『勘弁(汗)』

みたいな与一さんの心のうちが

見えてきそうなこの場面。

与一だってこんな賭けみたいな事ホントはしたくなかったはず、、、

まるで弓の名手ならこの人!と

登場したかの様にドラマでは描かれていますが

実のところ畠山重忠に断られ

那須為高(与一の兄)にも断られ

三人目の与一に『これ断るなら国へ帰れ!』と

義経に切れられて渋々の登場だった訳で、、、

またもや、嫌だけど心を鬼にして

放った矢は男の首に命中。


これをきっかけに再び戦闘がはじまり

景清は逃げる源氏側の美尾屋十郎の

甲の(しころ=首を保護するために甲の後ろに垂れている部分)を

素手で掴んで引きちぎり、

十朗は側にいた馬の影に隠れたものの

深追いはせず、

引きちぎった錣を天高くかざしながら

『我こそは都の童も

悪の七兵衛と呼ぶ上総の景清よ!』

と、名乗りをあげるのです。

そのあとも義経の

ちょっと格好悪いエピソードがあるけど

切りがないのでまたの機会にしますが

景清はこのあと壇ノ浦の戦いでも

上手く戦場を逃れて生き延び、

兄・忠光源頼朝の命を狙います。

しかし忠光は

鎌倉に建設中だった永福寺の工事現場に

片目に魚の鱗を入れた姿で侵入して

頼朝暗殺の機会を狙いましたが

素性がバレて処刑されてしまいます。


そして景清は東大寺大仏殿に

頼朝がお参りするのを

狙って暗殺計画を企てるも見つかってとうとう捕らえられてしまいます。

しかしすぐに斬首される事は無く、

主君を思う武士の誉れとして

鎌倉武士の同情を買い、

鎌倉へ送られ武闘派で知られる和田義盛

預けられます。

しかし流石に悪七兵衛!

景清は義盛邸の庭で馬を乗り回し、

酒を飲んでは大暴れ・・・

豪快すぎます!

困り果てた義盛は頼朝に相談して

八田知家に預かり役を代わってもらいます。

義盛と同じく武闘派で

敵ながらも豪快で大胆な景清に

良い印象を持っていた

知家は義盛以上に親切に

敵に捕らえられ、

その地で保護されるという

惨めで哀しい気持ちを悟られまいとした

景清の横暴ぶり

何一つ文句も言わずにまるで息子の様に

もてなしてくれました。


その優しさに

今まで張りつめていた景清の心は

見事に崩れました。

やがて彼は化粧坂の中腹にある洞窟に籠り

それでも毎日八田家から運ばれて来る食事には

一切手を付けずに

ひたすら読経を続け

勇猛と称された身体は見る影もなく

やせ細り、

1195年3月7日

その命が尽きるのです。


長くなりましたが上の写真が化粧坂入り口の洞窟跡の碑です。

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現在多くの観光客が訪れる化粧坂は
かなり昔の面影が残る場所だと思われます。
鎌倉七切り通しのひとつで、防御上わざと登りにくくしてあるのと、
名前の由来は源平合戦で平家の武将の首実検をここで行う際、
首を化粧したからだそうで( ꒪⌓꒪)( ꒪⌓꒪)( ꒪⌓꒪)

多くの仲間達が首実検されたこの地で
読経を続けた景清
源平合戦での出来事や逃亡生活が
走馬灯の様に駆け巡っていたのでしょうか?

***化粧坂(けわいざか/けしょうざか)***
鎌倉駅または北鎌倉駅より徒歩












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by midorikojika | 2017-08-20 21:40

怪しい坊さん 文覚を訪ねて伊豆と鎌倉




約1年8ヶ月ぶりの更新です^^;;

伊豆へ頼朝流人時代を訪ねた旅の2日目は雨が上がりレンタサイクルでぐる〜〜〜っと♡
しかし暑かった〜〜〜
訪ねた文覚の毘沙門堂は坂道を
えっちらおっちら自転車で登ったあと、
歩きで山道を登り、、、
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ありました。
ここから更に階段を上ります。
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ここがまた、蒸し暑くてTシャツ絞れるくらい汗かきました;;;
更に上へ登り、、、
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到着!
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苔の綺麗なお庭です。
山奥すぎて人も来ないのか?
手入れはあんまりされてないようです。

でも、この山奥感や人も近寄らない感が、文覚にはぴったりと
はまると言うか、、、
この文覚さん
頼朝に平家を倒すべく
挙兵を決意させたと言う、、、
しかも義朝の髑髏持参の〜〜〜

いちいちやる事過激な坊さんで、
まずは出家したいきさつが凄くて、
もとは北面の武士
(院御所を守る武士←何事もなければ暇そう
たしか大河ドラマの平清盛も最初はこの仕事をしていてとっても暇そうでした)が、
若き文覚、遠藤盛遠(えんどうもりとお)
人妻だった袈裟御前に恋をします。

そして何とかその思いを遂げたいと迫る文覚に彼女は
『夫を殺してください』と、言います。
文覚は袈裟御前の夫の殺害を計画
ある夜こっそりと屋敷に侵入して
暗闇の中で夫を斬り殺しました。
ところが!
その斬った首を確かめるとそれは
夫ではなく男装した袈裟御前だったのです。

文覚と夫との間で苦しんだ彼女の決断は夫のふりをして文覚に斬り殺される事でした(泣)
彼女の菩提を弔う為に出家した文覚
(北面の武士が叶わぬ恋のあげく出家したってどっかで見た様な??
またまた大河ドラマの平清盛だけど西行の出家の理由が待賢門院に失恋した事でしたよね?
史実ではそれが美福門院とも上西門院とも、
または全く違う理由とも言われていますが)

そして荒行という荒行をかさねた文覚
京に帰ると評判の験者となっていて
神護寺の修復のための勧進帳をもって
あの後白河法王へ直談判!!
が、
彼の逆鱗に触れてしまって寄付どころか
伊豆へ流罪となり〜の、、、
そこで流人同士出会ってしまったのが
頼朝なのでした〜
(後白河法王の逆鱗に触れるエピソードがまたお互いはまり過ぎていて面白いのですがそれはまた機会があれば・・・)

そんな文覚
頼朝を挙兵へと決意させた時に
持参したものが義朝の髑髏かどうかは
定かではないけれど、、、
鎌倉の勝長寿院
ほど近くにおうちがありました。
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勝長寿院は頼朝が
義朝の菩提を弔うために建立したお寺で
義朝と一緒に亡くなった鎌田政清のお墓もここにあります。
(今は碑とそれぞれのお墓だけ残ってます)
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知らないと通り過ぎてしまうほどの小ささ

一時は実朝と政子も
ここに葬られたそうですが、
今は寿福寺
(政子は安養院にもお墓があります)

その後の文覚は
頼朝の護持僧となり活躍したそうな・・・
しかし頼朝亡き後は
また波乱の人生が待ち受け、
最後は流刑地の対馬へ行く途中、太宰府で命を落としたそうです。

いや〜〜映画の一本でも作れそうな
ドラマチックな人生だな〜と、
検索してみたらありました〜
地獄門
昭和28年って、、、かなり古いですね。。。
他、江戸時代には
歌舞伎や人形浄瑠璃の
題材にもなったようです。

京都には文覚と袈裟御前縁の
『恋塚寺』があります。
行ってみた〜〜〜い!!











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by midorikojika | 2017-07-08 00:42


愛犬をお供にゆる?く史跡を巡った日記です
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