鎌倉の平家〜赤旗の残るお寺〜

平家の公達のイメージって、
一般的には、弱い、戦さが出来ないって、
情けないイメージがついちゃってるんではないかと思いますが、
その代表的エピソードは『冨士川の戦い』
水鳥が一斉に羽ばたく音を源氏の夜襲と勘違いして逃げちゃった・・・

それと、壇ノ浦にて平家の主だった人物が海に身を投げたとき、
命を惜しんで逃げ回った挙句、呆れた味方に突き落とされるも
泳ぎが上手くて助かっちゃう・・・
しかも、息子の清宗が源氏の船に救い上げられるのを見て、
『僕も〜』って自ら船に近づき助けてもらっちゃう・・・
そんな、平家=情けないイメージの代表者、平宗盛さんが今日の主役です。

私もそんなにこのお方に魅力は感じないんですよ・・・
それより弟の知盛重衡の方がよっぽどカッコよいです。
ですが、このお方が鎌倉に今も残るお宝を置き土産してくれたので
ワクワクドキドキしながら拝んで来ましたよ^^

その前に宗盛さん
平家物語ではめちゃくちゃボコボコに描かれています^^;;
良いとこ一つもない的な、、、
また吾妻鑑でも、あまりに情けないと書かれています。

でも、歴史ブログなんかを見ているとこのお方の良いところをどうにか
見つけて書いてくれている方々もいらっしゃるので
その辺りをまとめながらお宝のご紹介とさせて頂きます。

平宗盛
平清盛の三男
母時子の妹、滋子(建春門院)に仕え、滋子の妹、清子を妻にします。
妹の徳子が懐妊したとき、乳母に選ばれた清子が急死してしまいます。
清子とは仲が良く、自ら辞職するほど悲しみそれ以来、政治には関わらなくなったそうです。
が、兄・重盛の死によってそうもしていられなくなり、
父・清盛が亡くなり、必然的に平家一門の倒立を取らなければならない立場になります。

以後、知っての通り、平家滅亡への道

壇ノ浦にて上記に書いた格好悪すぎるエピソード

その後鎌倉へ送られた時、人々は群れをなして見物したそうな、、、
頼朝の前に引き出されたとき、頼朝は御簾の内にいて比企能員を通して会話するという
かなりの屈辱を感じたのではないかとされていますが、
周りにはかつて平家に仕えていた者も集まっていてそこで命乞いをして嘲笑されます。
『助けて貰えれば出家する』と、比企能員にも、媚びへつらったという、
あまりに情けないと吾妻鑑でも記されています。

その後再び京へ戻される途中、
近江国篠原にて斬首
護送されながらもやっぱり命が惜しい宗盛は尾張内海(義朝が暗殺された地)を過ぎた辺りで
これはもしかして許されるのかも?とわずかに期待したとも言われています(また情けない;;)
しかし息子の清宗は冷静に、『もう夏だからもっと京に近ずいてから斬られて首を晒されるに違いない』と、
思っていたけれど、それを言ったら若干明るい顔になった父に追い打ちをかけることになるから黙っていたそうな・・・
もう父子逆転ですね〜^^;;;

そして近江篠原で清宗と離れさせられ、いよいよ斬首と悟った宗盛父ちゃんは
『清宗がいたからこそ、先の合戦で死なず京でも鎌倉でも恥を晒した。
クビにを斬られる場所だは別でも遺体は一緒に所へおねがいします』と、
清宗を気にする中、聖の説法で少し落ち着いた所を首をはねられます。
最後の言葉は『清宗はすでに斬られたのですか?』だそうな・・・

清宗は父の斬首の知らせを聞いて
『もう思い残すことはありません。どうぞ斬ってください』と、
潔く首を差し出したそうです。
そんな父思いの16歳。

完璧に39歳父と16歳息子立場逆転状態〜〜〜

あ、、、結局、宗盛父ちゃんの良い所って言うのは、
妻思い、息子思いのマイホームパパだったんではないかな???
ってところだけど、命乞いして出家するからとか自分の事ばっかりで、
息子だけは助けてくれとかそーゆーのが無いところがやっぱり残念だけど、どうにか
持ち上げて持ち上げてやっと家族思いってワードが出て来た感じですね。

そんな宗盛父ちゃんが最後まで持っていたと言う
平家の赤旗が、鎌倉の補陀落寺に残されています。
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じゃ〜ん!!
800年以上前の物なのでかなり劣化
赤が黒ずんじゃってますね。
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この補陀落寺
今は小さなお寺ですが当初はこの辺り一帯を占めていて、
あの文覚が開山。
文覚といえば何度かこのブログでも登場している波乱な運命を背負った豪快かつ
怪しい坊さんです。
ここは頼朝の平家追討の祈願所であり、頼朝の供養もここで行うことになったと言われているので
頼朝ファン必見のグッズが他にも・・・^^
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この頼朝像は頼朝自ら彫った物らしいです。
その前に置いてあるお位牌は頼朝のお位牌で文覚が書いた物とされています。
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そしてこちらが文覚裸像
文覚の自作だそうです。
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このお寺は先に書いた様にこの辺り一帯を占めていた大きなお寺だったそうですが、
別名竜巻寺とも呼ばれ、幾多の竜巻きや火災ににあって、
まるで文覚の人生と重なります。
今は材木座にひっそりと建っている静かなお寺さんです。

源氏もバラエティーに富んだキャラ濃い一族だけど、
平家も様々ですね〜
平家の公達はみんなお洒落で知的で美男子と伝わりますが、
今回の宗盛だけは何故かロクな事が描かれない
ドラマとか漫画とかに出て来ても必ずカッコ良く無いです;;

私も、単に補陀落寺をご紹介したかっただけなのに、
つらつらと、宗盛父ちゃんのマイホームパパぶりを書いてしまいました。
こんな時代にこんな家に生まれなければ
平凡な良いお父さんだったのにね。

次世は戦のない時代の一般家庭に生まれて来れると良いですね〜。

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補陀落寺:鎌倉駅よりバス『材木座』下車徒歩2分
または鎌倉駅より徒歩15分

平家の赤旗は毎年『鎌倉まつり』期間中(4月第2日曜〜第3日曜日)から
5月末日まで公開されます。

文覚についてはこちら












# by midorikojika | 2019-02-16 13:55 | 源平合戦

没後800年 実朝の足跡を歩く

源実朝(みなもとのさねとも)
いい国作ろう鎌倉幕府源頼朝の次男です。
彼はまさに1192生まれ
この1192年は昭和の子供なら必ず歴史の授業で源頼朝が鎌倉幕府を開いた年と覚えさせられましたが、
でも最近はそれが『良い箱』(1185)とされているらしいですね〜
まま、その話しを出してしまうと本題から外れてしまうのでまた機会があればにしまして、
千幡(せんまん)←実朝の幼名はおぼっちゃまとして生まれ、
大きな期待と共に大切に育てられた事でしょう。

そんな千幡は兄頼家の失脚を機に12才で元服して名を実朝と改め将軍となります。

悩み多き実朝の人生。
12才で訳もわからず将軍になり、病弱だったり、孤独を感じたりしながら
和歌をたしなみ、京に憧れ、宋(中国)に憧れ、後鳥羽上皇を敬慕し、
地味ながらも色々あった実朝の28年の足跡を訪ねてみました〜

青梅聖天社
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巨福呂坂切り通しの入り口なのか?出口なのか?
今は通れない切り通し(行き止まりなんです)のはずれにあります。
地味〜で小さいのでわざわざ訪ねる人も少なそう?です。
でも私的にはかなり気に入ってますよ^^

長い階段の両脇には冬は水仙のお花、2月〜3月は梅の名所でもあります。
階段を登りきると、
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小さなお堂
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ここは病気になった実朝に季節外れの『青梅が食べたい』と言われた家臣が社で祈願すると
梅の木に実がつき、それを食べた実朝は快癒し以来、『青梅聖天社』とよばれる様になったと言われています。

ここの面白いのは御神体が『歓喜天立像』と言って、
頭が象、体が人間の姿で2体が向き合っているという、ミステリアス
霊力がとても強力であるとされ、普段はほとんど人の目に触れる事はないそうです。
しかも、今は鎌倉国宝館にいらっしゃる。(お祭りの時だけお戻りになるそうな・・・)
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私も写真でしか見てないです。
向かい合っているのは男神と女神で『相抱き正立』して顔を見つめ合う姿で
一般には夫婦和合の利益ありなどと説かれているけれど、
ここは巨福呂坂頂上近く祀られているので
峠を往来する人々の安全を願ってのことだったそうです。

歌の橋
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知らなければなんとなく通り過ぎてしまう地味な橋です。

ここは実朝所縁の、この後の和田合戦に絡む逸話の残る橋です。
頼朝亡き後の鎌倉幕府は共に戦った御家人たちが次々と
滅ぼされていくのが辛くて、
大河ドラマ『草燃える』の総集編も観れず、
吾妻鑑も読めずだったのですが、
この橋の事はうっすら知っていました。

碑文にはこうあります。

鎌倉十橋のひとつです。
1213年2月に渋川兼守(しぶかわかねもり)が、謀反(むほん)の疑いで処刑されそうになったとき、
無実の思いを十の和歌にこめて荏柄天神(えがらてんじん)に納めました。
次の日、将軍の実朝(さねとも)は、その歌を聞いて感心して罪をゆるしました。
兼守は神に感謝して、そのお礼としてこの場所に橋を造り納めました。
これがこの橋の名の由来であります。

この謀反の疑い、、、それは、1213年、信濃国の泉親衡が2代将軍頼家の遺児栄実を将軍にして執権北条義時を討つ計画を立てていて、
この計画はバレて首謀者は捕まりその中に兼守も加わっていたと言うことです。
兼守が和歌が得意で実朝が和歌好きで良かった。
しかし、この渋川刑部六郎兼守(刑事さんみたいな名前だな〜)はただの疑いだったのか?
ホントにこの計画の首謀者だったのか?
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現在の歌の橋

この謀反計画は侍所別当の和田義盛の息子の
義直、義重、甥の胤長も関与していたとされ逮捕されますが、
義盛爺の(頼朝挙兵時代からの御家人なのでこの頃はお爺ちゃん)嘆願により
息子二人は実朝が許すも、
胤長に関してははその翌日に一族98人を引率して嘆願する中、
北条義時は胤長を縄で縛りあげて奥州への遠流を決定

その後胤長の幼い娘が父親の遠流を悲しんでの病で亡くなり、
何も出来ない実朝はこころを傷めて義盛の願い出で胤長の屋敷を返します。

しかし!

その場所は御所のすぐ東、戦いになれば敵を隣に置くことになる!と
またまた北条義時に奪われて
家に居た者は追い出されてしまいます。

この相次ぐ挑発、嫌がらせ、
和田さんも義時の陰謀にはまってしまったんですね。
同年5月2日 挙兵
有名な和田合戦です。

由比ヶ浜は戦場となり義直が討たれ『今は戦う甲斐もなし』と、
大泣きしている所を討ち取られます。

なんだか書いていて悲しくなって来た。
吾妻鑑のなかでも、このあたりって一番避けていた部分でなんですよ(泣)
辛すぎて読めない観れない。
でも読んでしまったので書けばまだまだ続くのだけど、
あれ?実朝の足跡のはずだったのに・・・・

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一族の墓?和田塚という駅はまさに
和田一族のお墓のある駅です。
由比ヶ浜で亡くなった亡骸をここに集めて弔ったとか、
もっと後にここに出来たとか言われはありますが、
800年以上経った今も地面には人骨の破片が落ちているそうです。

何度も行ってるけどね。
私は何も感じません。

ちなみに鎌倉は霊感のある人はすご〜く
感じちゃうそうです。

******************************
青梅聖天社:鎌倉市雪の下2−6
鎌倉駅より徒歩15分

歌の橋:鎌倉市二階堂932付近
鎌倉駅より徒歩20分

和田塚:鎌倉市由比ヶ浜3丁目
江ノ電和田塚駅より徒歩1分または
鎌倉駅西口より徒歩15分
















# by midorikojika | 2019-02-09 20:17 | 鎌倉時代

源実朝暗殺事件の謎〜公暁の逃げた道を歩いてみました〜

今年は源実朝没後800年です。
小倉百人一首93番 鎌倉右大臣
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『世の中は常にもがもな渚漕ぐ海女の小舟の綱手かなしも』
(世の中の様子がこんな風にいつまでも変わらずにあってほしいものだ。
波打ち際の漁師の小舟が舳先にくくった綱で引かれている。
こんな当たり前の風景が切なく愛しい)
この歌、自分的にとってもお気に入りです。
当たり前のなんでもない風景が愛しい。
新しい年を迎えるにあたってもそれが続くと良いなぁと、
数年前の年賀状にそんな思いでこの歌をデザインの中に入れ込んで送ったけど、
誰も気づかず^^;;;

実朝のこの歌はいつか来る悲劇を予感しての歌だったのでしょうか?

1219年(承久元年)1月27日
三代将軍源実朝は、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席し、その帰りに甥の公暁によって暗殺されます。
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調べれば調べるほど謎だらけのこの事件
実行犯は公暁だけど、黒幕は三浦義村だ北条義時だとか諸説ありますが、
それは置いておいて
実朝を斬ってからの公暁の足取りを追ってみたいと
公暁悲劇の道と呼ばれる道を歩いてみました〜

実朝の首を取った公暁は雪の下の備中阿闍梨の家へ行き、食事
(ひと殺した直後に食事って149.png
その間も実朝の首を抱えて離さず149.png149.png149.png
そこで三浦義村へ宛てた手紙を書き、乳母子弥源太に託す。
なかなか三浦からの迎えが来ないのに痺れを切らした公暁は
自ら三浦邸へ向かう。

ここからは色んな説があるのですが、
どの説でもここを雪の中、山越えしたことだけは確かな様なので
歩いてみました〜

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二十五坊
ここは八幡宮の供僧の宿舎と別当坊が置かれた所です。
備中阿闍梨のお家もこの地にあったのでここから雪が60センチも積もる中、
山道を歩いた公暁
(気合入ってるっていうか命がけ)
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このトンネルは無関係^^;
この石垣から山へ入ります。
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いい感じの山道です♡
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ちょっと公暁気分で逃げポーズしてみる^^
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結構急だったりもします。
当日は60センチの積雪だったそうな・・・
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捕まって歩かなきゃならない様な道もあります。
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ここを雪の中歩いたんだ・・・
トレッキングシューズなんて当時はないし、指先霜焼け出来そうだな・・・
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そしてここが四の辻です。

一説には、ここで追っ手に捕まり討ち取られる。と、ありますが、
ここから三浦邸まで行くも塀をよじ登っていた所を
長尾定景に討ち取られる。
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この辺りに三浦邸がありました。

また違う説では
大雪で道に迷っていたところを長尾定景に討たれた。とも、
八幡宮山で餓死した。とも、
逃走中に山から転げ落ちてどこかのお屋敷の門の下に隠れていたところを
家主に盗賊と間違われ殺された。とも、
色んな説がありすぎるのだけど、
吾妻鏡では

討ち取った公暁の首は北条義時邸にて首実検するが
息子の泰時が『本物かどうかわからない』
と、発言しているんですね〜

その後首はどうしたんでしょうか?
公暁のお墓ってのはどこにあるのか?
はたまたそんなものないのか?
分かっていないのです。

そして実朝の首は三浦義村の家臣 武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼って
鎌倉から遠く離れた神奈川県秦野市に連れて行かれ、
そこに今も首塚があります。(金剛寺)

鎌倉の龍寶寺(りゅうほうじ)には実朝のお位牌が安置されているそうです。
その辺りはかつては深い谷で人が入ることは稀であったけれど、
公暁が持っていた実朝の首を七騎の武士が持って逃げてこの谷に隠れて追手に捕まるのを逃れた
と言う、伝説があり七騎谷の伝説と呼ばれているそうです。

なんだか色々言われがありすぎてわかりませんね^^;

その近くには公暁を討ち取った長尾定景一族のお墓のある久成寺があります。

ついでに調べてみた実朝お墓関係のお寺

鎌倉の寿福寺には母政子の近くに五輪塔があり、
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この左先に実朝の櫓もありますが、暗くて撮影出来ず、、、
政子様の墓前にてグリーンに頼朝が乗り移った図であります^^;;;



高野山禅定院(今は金剛三味院と改称)にもお墓があります。
(ここは政子が頼朝の菩提を弔うために築いたお寺)

京都の大通寺実朝の妻、本覚尼(坊門信子)が実朝の菩提をを弔うために創建
本尊の宝冠釈迦如来像の脇に実朝像が安置されているそうです。
本覚尼は実朝が暗殺されると寿福寺で出家して京に戻って大通寺を創建したそうです。
ちなみにこのお寺は尼寺として栄え、
みんな大好き阿仏尼も夫為家の供養をして阿仏尼の墓とされる『阿仏塚』があるそうです。

実朝の葬儀は首のないまま執り行われ、

実朝は運命の右大臣拝賀の式に出かける前に、髪結師に
『そなたには今まで長く髪を結ってもらった』と『びんの毛を記念にとらす』と渡し、
庭の梅の木に向かい、
『出ていなば主なき宿になりぬとも軒端の梅よ春を忘るな』
(私が出て行ったら主のいない家になってしまうが、梅よ、春を忘れずに咲いてくれ)
と歌を読みます。
まるで自分が今日は帰らぬ人となることを知っているかのように。

な、なんか切ない、切なくなって来た。
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最後に現在の鶴岡八幡宮の様子。
この階段の反対側に公暁が隠れていたという大銀杏があります
(数年前に倒れて今は再生中^^;)
実朝没後800年を記念した展示を鎌倉国宝館に観に行って来ました。
秦野市の首塚の最初は木製の五輪塔だったものや、
実朝の坐像、実朝が建立した大慈寺の瓦、
深く帰依していた栄西像など見応えありましたよ〜

やっぱりいくら過去の事でもその場でこの目で確かめたくなる。
史的好奇心はどこまでも広がりますね〜

*******************************************
*阿仏尼についてはこちら

























# by midorikojika | 2019-01-30 23:05 | 鎌倉時代

鎌倉の鎌足

かまたり〜鎌足〜泣いたり〜笑ったり〜

今日は藤原氏の祖 中臣鎌足のお話〜

鎌足くん、実は鎌倉の地名の由来と言われているんですよ〜
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遠い昔の飛鳥時代、聖徳太子が亡くなると
蘇我蝦夷は舒明天皇(じょめいてんのう)を
天皇にして
政治の実権を握るようになります。
そして蝦夷の息子の入鹿
聖徳太子の一族を滅ぼして
日本の政治を思うままに動かすように
なりました。

中臣鎌足は12歳年下の中大兄皇子とどうしてもお友達になりたくて
チャンスを狙っていました。
そんなある日、蹴鞠で遊んでいる中大兄皇子の靴が脱げて飛んでしまったのを
探してあげてお返ししてあげました。
そこから二人は親友♡

このままではいけないと思っていた二人は蘇我氏を倒す事を誓い、作戦をたてました。

645年、ふたりは皇居内で入鹿を殺害し、蘇我氏を滅ぼします。

その後、大化の改新
鎌足は中心になって活躍し、
中大兄皇子を助けました。
鎌足の死の直前、天智天皇となっていた
中大兄皇子は
最高の位である『大職冠』と『藤原』の姓
鎌足にあたえました。

それが、その後平安時代に権力を振るう藤原氏の初まりです。

と、前置きが長くなりましたが
この鎌足くんが何故鎌倉??

鎌足は乳児の時に、稲荷大神から鎌を授けられて常にお護りとして身に付けていました。

大化の改新を成し遂げた鎌足くんは翌646年、東国に向かい相模国由比の里に逗留しました。
その夜、夢のお告げがあり、
『あなたに鎌を授けて守護して来たが、入鹿討伐という宿願を成し遂げた今、
授けた鎌を我が地に奉納しなさい』
こう言われた鎌足くんはこの地に鎌を埋納しました。
この逸話から『鎌倉』という地名がついたという説があります。

では、、、
鎌足くんは何処に鎌を埋めたか?
言われは2ヶ所ですが今日はその一つ、

『鎌足稲荷社』を訪ねました〜
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知る人ぞ知る、、、
大人気の石窯レストランのあるお寺『浄妙寺』の横にひっそりとあります。
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ここから入ります。
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階段を登るよ
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祠の脇に入ると、、、
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奥にはやぐらがありました。
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鎌足くんが逗留したのはいまの由比ヶ浜のあたりと思われます。
ここは今こそサーフスポットだったり、ドラマの撮影で使われるお洒落な海岸だけど、
昔はそれは血生臭い戦いがあったりとか、
死体を捨てる場所だったりとか、、、

そして鎌倉にはもう一つ鎌足くん所縁の『甘縄神社』があります。
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由比ヶ浜からほど近いこの神社は鎌足くんの4代目の子孫である
染谷時忠の創建です。
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710年、行基の草創によるもので鎌倉最古の神社です。
行基は鎌倉最古の寺院である杉本寺も734年に開いています。
(行基ってすごい)
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甘縄神社は源氏との所縁も深く、
源頼義がここに祈願して義家を授かったことは有名で、義家も1081年に修復工事を行なっています。
頼朝の崇敬も篤く1186年には社殿を修理し鳥居を建てました。
政子や実朝も参拝に訪れています。
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境内には安達盛長邸跡の碑や北条時宗産湯の井戸もあります。

古代から中世の歴史の様々なシーンがここで・・・と思うとワクワクドキドキしてしまいますね〜^^

*染谷時忠の逸話もありますが、また次の機会にします。

*************************************
鎌足稲荷社 JR鎌倉駅よりバス『浄明寺』下車
浄妙寺右手の丘

甘縄神社 江ノ電長谷駅から徒歩5分

***お知らせ***
歴史仲間と一緒に本を作りました〜
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タイトルは『反・吾妻鑑』
歴史友達7名による書き下ろしです。
よろしく〜









# by midorikojika | 2019-01-06 16:15 | 飛鳥時代

権ちゃんに会って来た〜権田栗毛物語〜

群馬に遠征!

今回の目的は東善寺岩櫃城だったのですが、
ちょっとその周辺を調べてみたらこんな逸話があったので
訪ねてみました〜
なんと、この地にも直実さんの所縁がっ!
と、いってもご本人の痕跡ではなく、愛馬です。

今日の主役は熊谷直実の愛馬、『権田栗毛』ちゃんです^^
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埼玉県熊谷市のJR熊谷駅前の
熊谷直実像
この直実を乗せているお馬さんか
権田栗毛ちゃんなのです。

それは源平合戦以前のこと
兼ねてから良い馬が欲しかった直実は、
家来に名馬の産地である
群馬県倉渕村権田へ強くて良い馬を
見つけて来る様に頼みます。
そして、家来は村中を探し、
小池さんの家でたくましい栗毛の
馬を見つけて熊谷に戻ります。
直実はこの馬を
権田栗毛と名付け、←まんまやん(≧∇≦)
大切に育て、沢山の戦いをともにしました。

あの有名な一の谷の戦いで泣く泣く
敦盛を討ち取った時もお供していたのは
権ちゃんだったのね…

しかし、戦いで首に傷を受けた権ちゃんは
もう共に戦には出られなくなりました。
直実は自分の背負っていた母衣
包帯代わりに権ちゃんの首に巻いてあげて、
生まれ故郷の小池さんのお家に帰す事にしました。

権ちゃんは長旅の末に倉渕村の小池さんのウチにたどり着きましたが、
名馬を出すと三代で家が絶えるのことわざ通り、小池さんのお家は無くなっていました。

権ちゃんは、悲しみのあまり、ヒヒーンと泣きながら小池さんのお家があった周りを
とぼとぼと歩きまわりました。
それから権ちゃんは直実と暮らした熊谷を目指して歩き始めましたが、
首の傷の悪化と疲労がたまり、村からほど近くで死んでしまいました(泣)

その権ちゃんの終焉の地がこちらです。
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探しましたよ。
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こんな風に紹介されています。
そして奥へ。
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なんて書いてあるかわからないくらい古い石柱
その奥かな?
権ちゃん何処どこ〜?
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何処どこ〜?

いた〜〜♡
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権ちゃん
いたいた〜〜(≧∇≦
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こんな所からお顔ちょっとだけ出して(^^)
権ちゃん〜
頑張ったね〜
ご苦労様だったね〜〜
ここでゆっくり眠るんだよ〜〜
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そのすぐ近くには、
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権ちゃんがこの石を枕に亡くなっていたそうです。
権ちゃんの巻いていた母衣が外れて
小指ほどのサイズの観音さまが出て来て村の人々は驚いたとか。

その頃の武士は髷に小さな観音さまを入れていたそうです。
きっと直実が母衣を巻く時に御守りとして一緒に巻いてあげたのではないでしょうか?
直実の優しさが伝わりますね。

私も犬と生活しているので
動物の出てくるお話には、グッと来てしまいます^^。

幕末の偉人、小栗忠順さまを訪ねて
思わぬ出会いに感激した群馬の旅でした〜〜(^^)

**********************
熊谷直実の一ノ谷の闘いについてはこちら






# by midorikojika | 2018-05-29 21:33 | 源平合戦

愛犬をお供にゆる?く史跡を巡った日記です


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