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大宝寺と妙本寺〜鎌倉での佐竹氏〜

夏休みも鎌倉は大勢の観光客と、海水浴客、そしてお盆のお墓まいりにいらした方とでにぎわっています。

おまけに当日は『鳩の日』で、豊島屋さんの鳩サブレが限定の缶で発売されたりもしちゃうから、
それ目当てに炎天下の中、豊島屋前に行列する鳩ファンの皆様で更に鎌倉の街は熱く盛り上がっていました^^
私も実はその限定鳩を入手したいな・・・とも一瞬思ったものの、2時間待ちとか無理です。
せっかくの鎌倉で2時間あったらお寺や史跡を1つでも多く歩きたい感じ^^

って訳で歴オタの夏は熱い!(笑)

鳩より墓です!
やぐらです!

存在は知っていたものの、あまりタッチしなかったこのお寺
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大宝寺
碑には佐竹屋敷跡と書いてありますね。
ここは佐竹氏の祖である新羅三郎義光が兄の八幡太郎義家と共に
後3年の役を鎮めた後、この地に館を構えて以来、佐竹氏の屋敷になったと伝えられています。

新羅三郎義光の孫の昌義が佐竹氏の祖となり10代後、

1399年は前年に足利義満が室町幕府三代将軍に就任する、そんな時代。

当主の佐竹義盛が出家してここに多福時を建立します。
その後廃寺となり、1444年、日蓮宗の日出が
多福山 大宝寺』として再興します。
昔の名前が山号になったってことですね。

ここは目立たない場所にあり、派手な宣伝も商売気もないお寺なので
今までは碑だけ見て『ふ〜〜〜ん』な感じで通り過ぎていましたが、
歴友のMちゃんが佐竹氏大好きなことから私もちょっと学んでみようと調べてみたら
ドキドキがありましたよ♡
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ジャジャン!
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ここだけやけに新しいけど、新羅三郎義光と義盛のお墓です。
上の写真ではメインの宝篋印塔の隣にその頭の部分だけみたいなものが置いてありますが、
このどちらかが義光で義盛ってことでしょうか?

住職さんにでも聞いてみればわかりそうな話だけど、
そんな発想が出るはずもないような暑さだったのでお参りして、
本堂を囲うかのような雛壇状の山壁を見上げて、
もしやここは城郭的な役割をしていたのかな??
なんて何かに書いてる人がいたから、ほほう、、、と、何だか納得しながら
大宝寺を後にしました。

あ、裏山は佐竹山と呼ばれ祇園山ハイキングコースの一部ですが、
ここから直接祇園山ハイキングコースに入る方法がわからず、
八雲神社の裏から入ることにしました。
八雲神社は新羅三郎義光が
兄の助勢に向かう途中、
この地で疫病に苦しむ民を救うために
京都祇園社から勧請したと伝わっていて、、、
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こんな巨大な卵みたいな石があります^^
立て札の通り、新羅三郎手玉石と紹介されているだけで
なんの説明もありませんが、まぁ、、、
多分手玉に取ったんでしょう^^;;;

そこから私たちは祇園山ハイキングコースに入り
目指したのは妙本寺裏です。
ハイキングを目的にするとここで降りて行く人はあまりいないので道はあるものの、おそらく
遠い古からあまり変わっていないんじゃないかと思われるほど加工のない道です。
今回は写真を撮らなかったのが残念なので、去年の冬にワンズと逆から登った写真です。
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この時は冬だったのでさっぱりですが、今は木が鬱蒼としていたり、
雷かなんかで折れた?大木が横たわっていたり、
なかなか楽しめる道でしたよ^^
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そしてやってきたのはここ、竹御所のお墓です。
竹御所は源鞠子または媄子(よしこ)
頼家の娘(つまり頼朝の孫で源氏最後の直系)で母は若狭の局とも木曽義仲の娘とも言われています。
この竹御所の館のあった場所に彼女の遺言により建立された新釈迦堂があり、今はお墓が残されるのみですが、
新釈迦堂の裏に佐竹やぐらなるものがあると言うことを始めて知った私。
妙本寺は大好きで何度も来ているのに知らなかった!
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なぜなら勿論境内の案内板にも載っていない、HPにも載ってない。
夏場なので草が生い茂って見つけられるか??
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ありました〜〜〜
説明が書いてあると思われる碑は草に埋もれてます;;

この佐竹やぐらのいわれは
まあ、家督争いの果ての、、、みたいなもので、 
男の子に恵まれなかった佐竹義盛は1407年、危篤に陥ると
娘婿の上杉義人(義憲)を養子に」して家督を継がせます。

佐竹氏嫡流の多くが上杉からの入婿に反発していて
佐竹与義(もとよし)は反対派の先頭に立ち義憲と対立したそうで、、、

上杉禅秀の乱では禅秀に味方し、鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し
持氏に従っていた義憲を攻撃
この乱で上杉禅秀は鶴岡八幡宮の別当坊に立てこもって自刃したそうです。

与義はその後も持氏に抵抗を続けていましたが1422年
持氏の命により佐竹屋敷が上杉憲尚によって攻撃されると、
裏山を超えて比企ヶ谷に逃げ込み、新釈迦堂で一族、家臣を含む13 人と共に自刃。
その場所に与義らを供養するやぐらが作られたと伝わります。
(私たちが歩いた道を逃げて来たのだと思います)

自刃した与義を追って来た上杉方は堂に火をつけ、
その時の妙本寺の住職日行上人は急いで新釈迦堂から
日蓮が書いたと言われる本尊の曼荼羅を取り出して蛇苦止明神の井戸に隠します。
すると空に黒雲が起こり、その中に蛇の姿が見え、
雨がザーザーと降り出し火を消してしまったそうな、、、
これ以降、この本尊は『比企ヶ谷蛇形本尊』と呼ばれ
宝仏殿の中に納められているそうです。
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この井戸は比企の乱の際、
若狭の局が家宝を抱いて身を投げたと伝わり、松葉谷の六方の井と繋がっていて
この蛇形井戸と六法の井を下方を持って行き来していると伝わっています。
妙本寺は比企の乱で北条氏のよって滅ぼされた比企一族の館のあった場所に
当時は幼少で京にいて助かった比企能員の末子の
比企大学三郎能本が日蓮に帰依し、自分の邸を日蓮に献上したのが始まりと言われています。
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六法の井
まるで池ですね。。。

若狭の局が入水してから約60年後、
7代執権 北条政村の娘が
もだえ苦しむ病にかかり、
物の怪に祟られて悩乱状態となります。
そして、取り憑かれた娘が語ったところによると、

死んでから大蛇の姿となり、
頭には大角があって、
比企ヶ谷の土の中で火炎のような熱さに常に苦しんでいる

ということでした。

政村は若狭局の供養をし、井戸近くに若狭の局の霊を祀るために蛇苦止堂を建立したと言われています。
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蛇苦止堂のお話はいつかは紹介しようと思っていましたが、
思わぬ形でご紹介することになってしまいました。
比企の乱、頼家の暴走と修善寺での生活、
若狭の局生存説、いろいろあってどれを取っても
ちょっと悲しいドラマになりますが時間を作って書いて行きたいと思っています。

若狭の局(讃岐の局とも言い、おそらく同一人物)がどんな女性だったか?
永井路子さんの『北条政子』に出て来る彼女は良い風には描かれていませんでした。
若狭の局、竹御所、誰と結婚して子どもを産んでどんな風に亡くなったかは
残るけど、その人柄については全くと言っていいくらいわかりません。

若狭の局のお墓は一幡(頼家との長男で比企の乱で無くなる)の袖塚を後ろから見下ろすような場所に有ります。
若狭の局のお墓
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一幡の袖塚
左上の方にちらっと若狭局のお墓がみえます。

どんな女性だったとしても母として子を優しく見守っているには変わらないのでしょう。

あれ?いつの間にか主役も時代も変わってしまった。。。

長文おつきあいありがとうございました。











# by midorikojika | 2019-08-11 21:34 | 室町時代

鎌倉の平家〜盛国・盛久親子〜

鎌倉には、誰も気に留めないけど、調べてみると『えっ〜〜〜そうなんだ!』的な史跡がいくつかあるんです。
以前ご紹介した水艦景清の碑なんかも、
歴史に興味がなければ絶対にスルーしてしまう様な場所だし、
派手な紹介もないので知らなかったら何かあるな〜〜〜で、通りすぎます。

その、気にも留めない史跡が由比ヶ浜通りにもあります。
本気でただの道沿いにあります。
ちょっと可哀想な場所かもしれません。
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この全貌を撮影するにはみちの反対側へ行かなくちゃならないし
大きな木の陰になってしまっていたりで
あんまりじっくり見る感じではないんですよ;;;

それでもこれは何なのか??
よーく見てみましょう♡
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主馬盛久之頸坐(しゅめもりひさのくびざ)
説明を訳したものです。
主馬(しゅめ)とは、馬や馬具の管理をする役職を言います。盛久は、平家に代々仕えた主馬盛国(しゅめもりくに)の子であります。平家が亡んだ後、盛久は京都に隠れて、清水(きよみず)寺で願を掛けていたるのを、北条時政(ときまさ)に捕えられ鎌倉に送られました。  そして1186年6月に、この場所で処刑しようとした時、刀が折れ散るということなどが起きたため、許されました。 それどころか、頼朝から領地を与えられたと言うことです。

と、まあ簡単に書いてありますが、今回の主役は平盛久です。
盛久のお父さんの(叔父説もあり)盛国は大河ドラマ平清盛で上川隆也さんが演じていた人物です。

盛国も実は鎌倉に来ていました。
ドラマの最終回で彼の最期に触れていましたが
当ブログ『鎌倉の平家〜赤旗の残るお寺〜』の主役、
平宗盛が義経に連れられて鎌倉に下向した時に同行していたのです。

宗盛父ちゃんの情けなさはご紹介した通りですが、

盛国父ちゃんは岡崎義実に預けられ日夜無言、常に法華経を唱え断食して果てます。
それを聞いた頼朝は、そのような人物を預かり囚人にしていたことを恥たそうです。
ここでまた同じ平氏でも宗盛のガッカリ度が高くなりますね^^;;;

ところで経を唱え何も食べずに果てるって、どこかで聞いたような・・・
 そう、景清もそうでしたね。
(景清の伝説がこの盛国と被ってるって言う説もあります)

平家の父ちゃん繋がりで盛国が鎌倉入りした頃、京の六条河原で忠清法師が晒し首になっています。
忠清法師なる人物、それは景清のお父さん
景清の回でもご紹介した、大河では藤本隆宏さんが演じていた人物です。
忠清は壇ノ浦へは行かず、平家滅亡後に京で源氏方に捕らえられて斬首されます。

さて、主役の盛久
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石碑が木と一体化しちゃってますね^^;

盛久は壇ノ浦の後、大胆にも都に潜入
清水寺の阿闍梨・良観に帰依していた盛久は等身大の千手観音像を造立して
清水寺の本尊の右脇に安置してもらい、白直垂に裸足で千日参りをしていた所を
下女に密告され北条時政に捕らえられ鎌倉に連行され
梶原景時の取り調べを受けるも、真鍮の所願については殆ど陳べず、
土屋三郎宗遠が首を刎ねることに決まります。

1186年6月28日
由比ヶ浜にてまさに首が切られようとしたその瞬間、
土屋三郎宗遠の振り上げた刀が3つに折れて、
別の太刀で斬ろうとすると今度は目貫から折れ
富士の裾野から盛久に2筋の光が差すと言う
不思議な現象が起き、
宗遠は処刑を中断して頼朝にことの顛末を報告します。


ちょうどその頃、頼朝は正妻の政子から
清水寺のあたりに住む墨染の衣を着た老僧が夢に現れて
盛久の斬罪を枉げて宥すよう頼んだと言う
話を聞かされていて盛久を召して詳しい話を聞きます。

盛久は清水寺に千手観音像を造立して千日参りの宿題を立てて詣でていたことを話します。

所領についても頼朝から聞かれたので
紀伊の国に荘園を所領していたが平家没官領として頼朝に帰している由を述べました。

頼朝は盛久の旧領の荘園を返還することを約束し、
所領安堵の下文を与え、また京に帰るための馬を贈りました。
更に頼朝は後白河法皇の法住寺殿を再建する料に充てていた越前国今立群の池田荘を
盛久に与え、その収益で法皇の御所を造営させるように北条時政に命じました。

都に戻った盛久は宿所に行くより先に清水寺に参詣し、
良観阿闍梨に事の次第を涙ながらに報告すると、
良観も涙を流しながら話します。

去る6月28日の牛の刻、
盛久が安置した千手観音像が急に倒れ手が2つに折れたので
寺では不思議に思っていたけれど、
遠く鎌倉の地にある盛久を救う為であることが
わかったと。(涙)

都の人々はこの話を聞き、新造の千手観音のご利益は古くからの仏に勝っていると
この新仏を尊んだと言うことです。

その千手観音ですが、、、
今は清水寺にはいらっしゃいません。
なんと!
上野の寛永寺、清水観音堂にいます。
ここの本尊で秘仏となっているそうです。

盛久受難身代り観音として
初午厄除大祈祷会が行なわれる時だけご開帳となるそうです。
(観たい!)

寛永寺も素敵なお寺なんですよ。
ぜひその時に行って千手観音を拝みたいと思います♡

しかし!
この観音さまは平家物語では盛久が造ったことになっていますが、
恵心僧都の作となっているそうです。
(若干夢が壊れるな;;)
でも、
盛久の危機を救ったってことで絶対拝んでみたいですね。

この由比ヶ浜通りの誰も気にも留めない石碑たち。
こんな素敵な逸話が隠されているのです。

町に歴史あり^^
知れば知るほど楽しいですね〜

今回はおしまい^^

***************
平景清に関してはこちらでご紹介しています。

平宗盛に関してはこちら




















# by midorikojika | 2019-05-18 22:25 | 源平合戦

北条氏滅亡の道を歩く鎌倉遠足♫

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ここ数年ですっかり歴オタ鎌オタになった私は、あらゆる友達に鎌倉案内を頼まれます。
テーマを決めてコースを考えるのは楽しくて、つい↑のようなパンフを作ったりしちゃいます。
今回は歴史好きのFBグループの仲間で太平記の北条滅亡シーンで盛り上がっての
企画なので、表紙は北条高時が田楽を踊っているところを使いました〜

コースは浄光明寺からスタートです。
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このお寺は源頼朝が文覚に建てさせた堂が始まりとも、
頼朝の子と言われる島津忠久が建てた寺が始まりとも言われていますが、
1251年、北条長時が開山に真阿を招いて再興し、浄光明寺としたとされています。

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ここは赤橋守時のお墓です。
赤橋守時は鎌倉幕府最後の執権であり、
足利尊氏の御台所、赤橋登子のお兄さんでもあります。
守時は新田義貞の鎌倉進撃の折に出撃しますが激戦の末、州崎で最期を遂げます。
早くに両親を亡くした二人は何でも話し合いお互いを思いやる仲の良い兄妹だったそうです。
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1335年、足利尊氏は後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定したため、
ここ浄光明時に蟄居しますが弟直義に口説かれて
後醍醐天皇のを裏切る覚悟を決めたと言われています。

写真のお地蔵さんは撮影禁止なのでネットからの引用ですが、
足利直義の念持仏だった『矢拾い地蔵』です。

そのいわれは、ある戦いの折、直義の矢が尽きてしまい困っているところへ
ひとりの小僧が現れ、落ちている矢を拾い集めて来てくれて、
不思議に思った直義が振り返ってみるとそれは
直義が日頃信心していた地蔵菩薩像だったと言うことです。
ある戦いとは中先代の乱ではないかと言われています。

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次に訪れたのは宝戒寺です。
ここは鎌倉幕府滅亡後に北条氏の供養の為に後醍醐天皇が足利尊氏が建立させたお寺
元は北条家の屋敷だった場所です。
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徳崇大権現
北条高時を徳崇大権現として祀ってあります。
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宝戒寺の裏へ回るとここは東勝寺跡
北条高時らの一族と家臣870人がここで自害しています。
今は手つかずの野原です。
ここであの死出のドラマが繰り広げられたと思うと、
そっと静かにお眠りくださいと祈るだけです。
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そしてほど近くの腹切りやぐら
この写真の突き当たりです。
立ち入り禁止になっているのはがけ崩れなどの危険のためでしょうか?
ここ4月くらいから鎌倉のやぐらはなぜか立ち入り禁止令が出てます。
GWなどで観光客が多くなるからでしょうかね?
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去年はなかったこんな石塔が、、、
確か前は木の看板だったような、、、
はい。ここはふざけた気持ちで踏み入ってはいけない場所です。
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次に訪れたのは永福寺跡
源頼朝が奥州合戦などで命を落とした源義経や藤原泰衡をはじめとする
諸霊を供養する為に建立した寺院で
1405年の火災以来、再建された記録はなく、
昭和56年から平成19年まで発掘調査を実施して
今は公園になっています。
永福寺の建設中やその後には様々な物語がありますが
そのお話はまたの機会にして
太平記では、中先代の乱の折に足利尊氏・直義兄弟が居所にしています。
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次は浄妙寺
ここには足利尊氏のお父さん、足利貞氏と、
弟の直義が眠っています。
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大河ドラマ太平記での直義最期のシーンは涙無しでは見られませんね。
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足利屋敷跡を通って
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明王院の脇から山に入ります。
ここからは私も初めて歩いたハイキングコースです。
前から行きたかった大江広元のお墓を見つけました!
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そして更に歩きます。
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この右に北条家御一門のやぐらがあるよっていう道標は下半分は土に埋れています。
その右を入っていくとありました。
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写真はバラバラですが横に並んだやぐらです。
合掌
何だかもの寂しい空気のこの一帯です。
半分埋まった道標も、やぐらの入り口の埋まり具合も
長い年月ここで沈黙を守り通していたのだな・・・と。
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道中他にもあたりにはやぐらが沢山あります。
こちらはもう少し先の山の上にある道標
このに北条一門が眠ってるよ^^とまぁ書いてありますね。
あまり埋まっていません。
山の上ですからね〜
しかし、こんな所に道標おいてもあんまり人が通らなそうな場所です。

この後、拝観時間を過ぎた瑞泉寺を通り過ぎ、
永福寺に出て鎌倉駅方面へと帰路につきました。

観れなかったのは貝吹地蔵

それでもこの日は8時間お弁当タイムと、浄妙寺のお茶タイム以外歩きっぱなしだけど、
ずっ〜〜〜と、歴バナ^^
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最後に浄妙寺 喜泉庵でのお茶休憩写真
ゆったりお庭を眺めながらお抹茶をいただけます♡

沢山歩いて史跡観て、いっぱい歴バナして
みんな大満足な鎌倉遠足でした〜

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浄光明寺
拝観日 木・土・日曜・祝日
拝観時間 AM10:00~12:00
   PM1:00~4:00
(雨天多湿の日は拝観中止)
8月は拝観休止
拝観料 ¥200
****************
宝戒寺
開門AM8:00
閉門PM4:30
拝観料 ¥100
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浄妙寺
拝観時間 AM9:00~PM4:30
拝観料 ¥100




































# by midorikojika | 2019-05-04 23:59 | 鎌倉時代

千代能ちゃんと底脱ノ井〜海蔵寺〜

鎌倉でお花のお寺として名高い海蔵寺
季節ごとのお花が綺麗で観光客の絶えないお寺です。
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その海蔵寺の入り口右手に古い井戸があります。
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その名は底脱の井
そこぬけの井と読み、鎌倉十井の一つです。
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写真の説明は下記の通りです。

中世の部将の安達泰盛の娘の千代能が、ここに水を汲みに来た時、
水桶の底がすっぽり抜けた為、
『千代能がいただく桶の底脱けて水たまらねば月もやどらず』
と、うたったことから、この名がついたと言われています。
井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、
悟りが開けたと言う歌です。


調べてみると、それは上杉家の尼の話で詠んだ歌も微妙に変わっていたりもして
どうやら話しが混ざっちゃったり、千代能ちゃんをWikすると、
生まれた年が1223年で、お父さんより年上^^;
そんな感じで調べ進めて行くと書いてあることのつじつまが合わない事も
あるのですが、
なんだかこの千代能ちゃんと父ちゃんの安達泰盛に興味を持ってしまったので
まずは検索を重ねて千代能ちゃんの事をまとめたことをご紹介したいと思います。

安達千代能
父は安達泰盛(霜月騒動で一族諸共滅亡させられています)
お姉さんは覚山尼(安達義景の娘を泰盛が養女にしたので正確には叔母さん)
覚山尼は言うまでもない、北条時宗の奥さまで、北鎌倉の東慶寺を建立している人です。
そして千代能の旦那様は北条顕時(金沢顕時とも言う)

ここまででもう、、、時代に翻弄感が漂いすぎてますね^^

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千代能ちゃんは絶世の美女だったそうです。

ある時、法事で
『いくら美しい容姿を持っていても老衰の日は必ずくる。
死後に白骨しか残らない無情の人生を変える方法は出家しかない』
との法話を聴き、出家の念をもったそうです。

出家を決意した千代能はいくつかの寺院を訪ねましたが
全ての寺院から入寺を断られます。

蘭渓道隆が住職を勤めていた常楽寺を訪ねると、
修行を求めるあなたのその心は非常に良いが、
あなたの様な美女がこの寺にいたら五百人余りいる弟子たちは気が狂ってしまい、
坐禅を忘れ、佛経を忘れ、あなたを神にするに違いない。
昔から美貌は修行の道の最大の障害とされて来た。
出家して尼僧になった女性も少なくないが、多くの尼僧は成就出来ないか、
反って佛法に泥を塗ってしまった。あなたは家に帰ったほうが良い。』
と、言われ千代能ちゃんは自分の容姿が最大の障害だった事を知ります。

そこで千代能ちゃんは自分の信念を貫くために
燃える炭を顔にあて、その美貌を自ら捨てて再び蘭渓道隆を訪ねます。

禅師は千代能の固い決意に感動して
出家を承諾し、『無着』という法名を与えました。

その後、蘭渓道隆が亡くなると後継で来日した無学祖元の弟子になり
無学祖元のお気に入りになったそうな・・・

1282年のある夜
いつもの様に井戸から水を汲み寺に持ち帰る途中、
ふと月が目にとまりました。
まん丸の月が水の中にゆらゆらと動いている様を
静かに鑑賞していた千代能ちゃん。

その時、突然、桶の箍(たが)が外れて底が抜け、
一瞬のうちに水も月も消えてしまった。
それを見た千代能ちゃんは急に悟りを開き、
この世の全ては無常で幻で空である事の真意を理解して
『あれこれとたくみし桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ』
と、うたったそうです。

ここで既に歌ったと言われる歌が微妙に違うんですよね。
でも、千代能ちゃんが歌ったとすれば後者かな?と思います。
まぁ、良いでしょう。
ほんとはどうだったか?
それが千代能ちゃんではない人かもしれないしし、、、
今回は千代能ちゃんであったと仮定して書いています。

その数年後が霜月騒動です。
その時、旦那さんの北条顕時は下野国へ蟄居となります。
これを機に正式に門入したとも言われています。

また、北条顕時との間には女の子がいて、足利貞氏の正室(釈迦堂殿)になり、
高義を産んでいます。
高義は早世したため、上杉清子の産んだ高氏が家督を継ぎます。
それが後の足利尊氏ですね。
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貞氏お父さんのお墓は鎌倉の浄妙寺にありますが、共に釈迦堂殿も眠っているんでしょうかね?

ちなみに北条顕時のお墓は横浜市金沢区の称名寺にあります。
ここに千代能ちゃんも眠っているのかな?
ぜひ訪ねてみたいです。

そして北条顕時は蟄居した後、第9代執権の北条貞時の信頼を得て復権。
金沢流北条氏は顕時の代に全盛期を迎えたそうです。
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お花のお寺として名高い海蔵寺
2月3月は梅がきれいです。

************************
海蔵寺:鎌倉駅より徒歩15分

父ちゃんの安達泰盛に興味を持ちながらもまだ調査が出来ていないので
追々泰盛巡りもしていきたいと思っています^^
















# by midorikojika | 2019-03-30 12:57 | 鎌倉時代

鎌倉の平家〜赤旗の残るお寺〜

平家の公達のイメージって、
一般的には、弱い、戦さが出来ないって、
情けないイメージがついちゃってるんではないかと思いますが、
その代表的エピソードは『冨士川の戦い』
水鳥が一斉に羽ばたく音を源氏の夜襲と勘違いして逃げちゃった・・・

それと、壇ノ浦にて平家の主だった人物が海に身を投げたとき、
命を惜しんで逃げ回った挙句、呆れた味方に突き落とされるも
泳ぎが上手くて助かっちゃう・・・
しかも、息子の清宗が源氏の船に救い上げられるのを見て、
『僕も〜』って自ら船に近づき助けてもらっちゃう・・・
そんな、平家=情けないイメージの代表者、平宗盛さんが今日の主役です。

私もそんなにこのお方に魅力は感じないんですよ・・・
それより弟の知盛重衡の方がよっぽどカッコよいです。
ですが、このお方が鎌倉に今も残るお宝を置き土産してくれたので
ワクワクドキドキしながら拝んで来ましたよ^^

その前に宗盛さん
平家物語ではめちゃくちゃボコボコに描かれています^^;;
良いとこ一つもない的な、、、
また吾妻鑑でも、あまりに情けないと書かれています。

でも、歴史ブログなんかを見ているとこのお方の良いところをどうにか
見つけて書いてくれている方々もいらっしゃるので
その辺りをまとめながらお宝のご紹介とさせて頂きます。

平宗盛
平清盛の三男
母時子の妹、滋子(建春門院)に仕え、滋子の妹、清子を妻にします。
妹の徳子が懐妊したとき、乳母に選ばれた清子が急死してしまいます。
清子とは仲が良く、自ら辞職するほど悲しみそれ以来、政治には関わらなくなったそうです。
が、兄・重盛の死によってそうもしていられなくなり、
父・清盛が亡くなり、必然的に平家一門の倒立を取らなければならない立場になります。

以後、知っての通り、平家滅亡への道

壇ノ浦にて上記に書いた格好悪すぎるエピソード

その後鎌倉へ送られた時、人々は群れをなして見物したそうな、、、
頼朝の前に引き出されたとき、頼朝は御簾の内にいて比企能員を通して会話するという
かなりの屈辱を感じたのではないかとされていますが、
周りにはかつて平家に仕えていた者も集まっていてそこで命乞いをして嘲笑されます。
『助けて貰えれば出家する』と、比企能員にも、媚びへつらったという、
あまりに情けないと吾妻鑑でも記されています。

その後再び京へ戻される途中、
近江国篠原にて斬首
護送されながらもやっぱり命が惜しい宗盛は尾張内海(義朝が暗殺された地)を過ぎた辺りで
これはもしかして許されるのかも?とわずかに期待したとも言われています(また情けない;;)
しかし息子の清宗は冷静に、『もう夏だからもっと京に近ずいてから斬られて首を晒されるに違いない』と、
思っていたけれど、それを言ったら若干明るい顔になった父に追い打ちをかけることになるから黙っていたそうな・・・
もう父子逆転ですね〜^^;;;

そして近江篠原で清宗と離れさせられ、いよいよ斬首と悟った宗盛父ちゃんは
『清宗がいたからこそ、先の合戦で死なず京でも鎌倉でも恥を晒した。
クビにを斬られる場所だは別でも遺体は一緒に所へおねがいします』と、
清宗を気にする中、聖の説法で少し落ち着いた所を首をはねられます。
最後の言葉は『清宗はすでに斬られたのですか?』だそうな・・・

清宗は父の斬首の知らせを聞いて
『もう思い残すことはありません。どうぞ斬ってください』と、
潔く首を差し出したそうです。
そんな父思いの16歳。

完璧に39歳父と16歳息子立場逆転状態〜〜〜

あ、、、結局、宗盛父ちゃんの良い所って言うのは、
妻思い、息子思いのマイホームパパだったんではないかな???
ってところだけど、命乞いして出家するからとか自分の事ばっかりで、
息子だけは助けてくれとかそーゆーのが無いところがやっぱり残念だけど、どうにか
持ち上げて持ち上げてやっと家族思いってワードが出て来た感じですね。

そんな宗盛父ちゃんが最後まで持っていたと言う
平家の赤旗が、鎌倉の補陀落寺に残されています。
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じゃ〜ん!!
800年以上前の物なのでかなり劣化
赤が黒ずんじゃってますね。
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この補陀落寺
今は小さなお寺ですが当初はこの辺り一帯を占めていて、
あの文覚が開山。
文覚といえば何度かこのブログでも登場している波乱な運命を背負った豪快かつ
怪しい坊さんです。
ここは頼朝の平家追討の祈願所であり、頼朝の供養もここで行うことになったと言われているので
頼朝ファン必見のグッズが他にも・・・^^
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この頼朝像は頼朝自ら彫った物らしいです。
その前に置いてあるお位牌は頼朝のお位牌で文覚が書いた物とされています。
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そしてこちらが文覚裸像
文覚の自作だそうです。
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このお寺は先に書いた様にこの辺り一帯を占めていた大きなお寺だったそうですが、
別名竜巻寺とも呼ばれ、幾多の竜巻きや火災ににあって、
まるで文覚の人生と重なります。
今は材木座にひっそりと建っている静かなお寺さんです。

源氏もバラエティーに富んだキャラ濃い一族だけど、
平家も様々ですね〜
平家の公達はみんなお洒落で知的で美男子と伝わりますが、
今回の宗盛だけは何故かロクな事が描かれない
ドラマとか漫画とかに出て来ても必ずカッコ良く無いです;;

私も、単に補陀落寺をご紹介したかっただけなのに、
つらつらと、宗盛父ちゃんのマイホームパパぶりを書いてしまいました。
こんな時代にこんな家に生まれなければ
平凡な良いお父さんだったのにね。

次世は戦のない時代の一般家庭に生まれて来れると良いですね〜。

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補陀落寺:鎌倉駅よりバス『材木座』下車徒歩2分
または鎌倉駅より徒歩15分

平家の赤旗は毎年『鎌倉まつり』期間中(4月第2日曜〜第3日曜日)から
5月末日まで公開されます。

文覚についてはこちら












# by midorikojika | 2019-02-16 13:55 | 源平合戦

愛犬をお供にゆる?く史跡を巡った日記です


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