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鎌倉武士隊として木曽義仲挙兵祭りに参加!

昨年から鎌倉武士隊の御家人であります子鹿御前でございます^^。

4年に一度の信州丸子・木曽義仲挙兵まつり

長野県上田市と姉妹都市である鎌倉市を代表して鎌倉武士隊
木曽義仲挙兵まつりの武者行列に招待されたので参加して来ました〜
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15人限定だったのでお誘いいただいてすぐに参加表明しました〜

みなさん鎧をつけるときりっとして士気があがります^^。
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鎌倉武士隊の大将・鎌倉さんの作る鎧は
現存する平安時代の鎧を再現したものです。
前に大鎧講習会に参加した時は畠山重忠と同じ形を着用させていただきましたが
今回は平重盛モデルです。
他の武士隊の皆さんはマイ鎧(鎌倉さんの鎧作り教室で作っている)で
参加の方もいましたよ〜
みなさんの鎧愛が伝わって来ます^^
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着替えが終わると武者行列の参加者全員で記念撮影
鎌倉武士隊は最後列なので一番先に台に上がって全員が配置につくまで待っているのだけど、
足のサイズくらいの幅しかない板の上でちょっと動くと鎧が
隣の人や前列の人とぶつかって総崩れになりそうだったので
身動きせずに待つこと数十分^^;
誰か倒れちゃうんじゃないかって心配だったけど無事に撮影終了^^
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行列は鬨の声を上げながら
えい!えい!
おーーーーー!!
楽しかったです!
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大好きな巴御前と一緒に記念撮影♡

兼生尼は出家した巴御前です。

手塚光盛とも記念撮影しました。
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司会進行役に源範頼役だった迫田孝也さん
以仁王の木村昴さん
そして義仲役の青木崇高さん
♡カッコ良かった〜♡
今井兼平役の町田悠宇さんもゲストで参加していました。

この日はお祭りが終わってから木曽義仲ゆかりの地を巡りました。

意外なところに平景清伝説があったり、唐糸伝説も見つけたりで楽しかったですが
長くなるので次回に続きます。










# by midorikojika | 2022-11-04 09:07

鎌倉の秘境を歩く〜お塔の窪やぐら〜

鎌倉も御所からは少し離れた、大江広元が住んでいたあたり。
十二所の十二所神社のほど近くから山道へ入る。。。
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やま〜〜〜〜〜106.png
ここは鎌倉ですかぁ?
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奥多摩かどっかの山登りしてる気分♪
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ちょっと優雅そうに空見上げてますが、、、
ここへ来るまで草や木の生い茂った道無き道を背丈ほどの草をかき分けて、
蜘蛛の巣に引っかかりそうになりながらの道のりでした。

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こんな開けた道もあり、、、川ですけどね。
雨の翌日なんかはもっと水がいっぱいなんだと思います。

この後もほぼジャングルな道でぬかるみあり〜の
一本橋渡り〜ので辿りつきました。
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って、絶対通り過ぎそうな、、、ジャングル感凄いです。
しかしよく見るとポッカリ空いた穴ふたつ

はい!見つけました。
ここがお塔の窪やぐらです。
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中は18基の宝篋印塔に囲まれて真ん中に五輪塔
この五輪塔が北条高時の五輪塔と言われているそうです。
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お参りしました。
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そしてお隣のやぐらにはお地蔵様がいました。
高時のやぐらを守ってくれているのでしょうか?

お塔の窪やぐら
1333年5月22日 鎌倉幕府最後の日
北条一族とその家臣、郎党八百余人が東勝寺に立て篭もり自害します。
当時最高権力者だった北条高時も自刃して果てます。
高時の首を新田軍に渡すべからず、、、高時の家臣が首をもって鎌倉の山中へ。
真夜中の真っ暗な山道で(怖かっただろうな〜〜〜)
ようやくここに埋葬されたのだとか・・・

そしてこの家臣たちを助けてくれたのが貝吹地蔵さん
真っ暗な道をホラ貝を吹いて道案内をしてくれたのだとか・・・
(ホラ貝を吹いて新田軍が攻め寄せてきたことを知らせてくれたと言う説もあり)

こちらは天園ハイキングコースにいらっしゃるので見つけやすいです。

義時が執権政治を確固たるものとし、
150年の栄華を誇った北条氏もこうして終りました。
この山奥でひっそりとその後の鎌倉を見つめ続けていると思うと
なんだか切ないような哀しいような。。。
暗君と伝わる北条高時は大河ドラマ『太平記』で
片岡鶴太郎さんが見事に怪演されていました。
果たして本当にそんなだったのでしょうか?

北条首やぐらと言えば以前歴友と訪ねたことがありますが、
今回のお塔の窪やぐらも高時の首が葬られていると伝わります。
高時さん、首がそんなに沢山あるはずないので(笑)
どっちなんでしょうね^^
この日はこの後、鎌倉で一番高いところ
大平山を回ってから帰路につきました。
久しぶりのお山歩きも出来て初めてのやぐらにも行けて楽しかった〜^^

*十二所よりのもうひとつやぐらがあって、全部で3つを
お塔の窪やぐらと呼ぶらしいですが、その一つは見落とした様です。
夏場の草ぼうぼうでは見つけるのが難しいかもです。

秋深まった紅葉の頃に尋ねて見るのも良いかもしれませんね^^

お寺や神社の由緒でも歴史を知ることができるけど、
寂しげなやぐらが言葉無しに歴史を語っている様にも思えてしまう
お塔の窪やぐらでした〜

*****************************
合わせて読むのがオススメです。

以前北条首やぐらを訪ねた記事はこちら


鎌倉幕府最後の一日はこちら




















# by midorikojika | 2022-09-25 21:30 | 鎌倉時代

畠山重忠・二俣川合戦その後

1205年6月22日 二俣川で畠山重忠が討死します。
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『鎌倉殿の13人』でもその回は涙なしには観られませんでした。

今回はその時、妻や子供たち、側近たちはどうしていたか?と、その後のお話しです。

①子沢山な重忠

重忠の子供と言えばすぐに思い浮かぶのが六郎重保です。
かわいそうに由比ヶ浜で訳のわからぬまま謀反人にされて討たれてしまいます。
*重保のその時は当ブログ『畠山重保と望夫石』をご覧ください。

重保は嫡男でしたが上にお兄さんが4人くらい(?)いました。

お母さんは北条時政の六女で、重忠といつ結婚したかはわかっていませんが、
1164年生まれの重保が20代後半くらいの頃ではないかと言われています。
その前に4人のお兄さんの一人、重秀菊の前と言う、足立遠元の娘がお母さんです。
他のお兄さんたちは誰が生んだのかわかっていませんが、
他に何と!母不明の子が、
忠澄(薩州下向)
忠煕(大月市染川畠山祖)
重成
重俊(宮ノ原加藤氏祖)
重高(佐々木高綱養子)
重尚(鹿児島入来町高橋氏祖)
重政(井田氏祖)
重慶(日光に逃れ8年後謀反の疑いで殺害される)
松尾姫(長野佐久島氏祖)
子沢山ですね〜〜〜しかも男子多産系^^

子沢山のわりには妻として知られているのは北条時政の六女と、
菊の前ちゃん、側近の本田近常の娘くらいです。
この本田近常の娘が生んだ女の子が島津忠久室です(諸説あり)

重忠のやつ、、、いろんな所で種まいたな(笑)

そして菊の前ちゃんが生んだ梅菊と言う女の子が日蓮のお母さん説もあります。
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これ、追いかけて行くと切りないですが面白いです。
いつか時間が出来たら日蓮の生まれた房総を再度旅して調査してみたいですね^^

②重忠と運命を共にした者

さて、二俣川の戦い当日、
同行したのはわずか百三十騎で元々戦の準備などしていなかったので多勢に無勢・・・
それでも6時間に及ぶ戦いの末、愛甲三郎季隆の矢によって重忠が討死すると、
側近の本田近常、榛沢六郎成清、菊の前との息子の重秀は自害しました。

そして、重忠の後から二俣川に籠で駆けつけた菊の前ちゃんは
夫の討死を知るとその場で自害しました。
自害した場所に籠のまま埋葬された籠塚は今も地元の方々に大切にされています。
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③菊の前と遠元父さん
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菊の前は13人のひとり、足立遠元の娘です。
遠元父さんは1130年(?)の生まれで平治の乱では

*源義平(悪源太)率いる17騎の一人として活躍して乱後、伊豆に流された頼朝と交流し、
1180年8月、頼朝が挙兵すると配下に加わります。
石橋山の戦いには間に合わなかったけれど、10月2日、隅田川付近にて
豊島清元、葛西清重父子を迎えに上がります。
10月8日には頼朝から東国武士への最初の本領安堵として武蔵国足立郡を安堵されます。
1184年公文所の吉書始めが行われて*5人の寄人の一人となります。
他は皆京の公家出身者の中、東国武士として唯一文官として選出されています。

そんな遠元お父さんには3人の娘がいました。
藤原光能の妻(藤原光能って神護寺に頼朝と平重盛と肖像画が残ってる人です)
菊の前
そしてもう一人は北条時房室です。

娘の家族をもう一人の娘の家族が滅ぼすって・・・(泣)
お父さんはさぞかし苦しい立場だったのではないかと思います。
目がピクピクしてしまうのもわかりますね。。。

1207年3月3日、闘鶏会に参加した記事を最後に吾妻鏡から姿を消しているので
その後間もなく亡くなったのではないかとされています。

④畠山は続く
重忠亡き後、正妻の北条時政の六女は足利義純と再婚します。
そして生まれた泰国に畠山を名乗らせます。
義純を初代、泰国を二代とした源姓畠山はのちに足利尊氏が開いた室町幕府を支える
有力武将になって行きます。
足利基氏に仕えた畠山国清は新田義興をだまし討ちした卑怯者!
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こんな卑怯な奴が重忠の子孫のはずないと思ったらやっぱり血は繋がってませんでした。
(良かった〜〜)^^;
畠山国清がどんな卑怯を働いたかは大田区の新田神社のHPを観てください。

⑤畠山重慶

重慶(ちょうけい)は生まれ年も母も不明ですが
重保より下の子の様です。

二俣川で重忠が討死すると、上小寺に曾祖父の重遠を頼り、
重忠の遺髪を埋葬し、
自分は慈光寺の別当を務めたそうです。

その8年後 1213年9月19日
日光山別当の法眼弁覚からの使者から『重慶が謀反を企てている様だ』との報告がありました。
時の将軍 源実朝長沼宗政に重慶を生捕りにしてくる様命じます。
が、
下野国から戻った宗政は重慶の首桶を持参。
実朝は『畠山重忠は罪無くして誅殺された。その未子が陰謀をめぐらしたとしてもまずは身柄を連れて参上し、
陰謀の如何によって処分すべきところを殺してしまうとは・・・』と、嘆いたそうですが、
それを聞いた長沼宗政は『重慶の謀反は疑いない。生け捕るのは容易でしたが
直ちに連れて参上したならば政子や女官らの申請に従って許してしまうだろうから殺しました」と。
めちゃ自己判断ですね^^;
そして更に
『こんな事では今後は誰が誰が忠節をいたしましょうか。これは将軍家の御過失です。
中略
頼朝は武備を重んじていたのに当代(実朝)は歌や蹴鞠を業として
武芸は腐れている。女性を重んじ勇士はいないかの様です。』
と、なんとも無礼な言葉をはいて立ち去ったそうです。

長沼宗政は暴言が多くて問題だったとか^^;

長くなりましたが畠山重忠の妻と子供達でした。
オタク的覚えでもあるこのブログです。
まだまだ追うと沢山ありますが、基本的にはその人物のゆかりの地を尋ねてから
ブログにまとめていますのでその時間がなかなか取れません。
また、せっかく尋ねてもブログにまとめる時間がありません。

またいつになるかはわかりませんが重保の子供のこと、日蓮の生い立ちなんかも
まとめて行きたいと思います。

お読みいただきありがとうございました。

********************
源義平十七騎の遠元父さん以外のメンバー
鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊道・斎藤実盛・岡部忠澄
金子家忠・上総広常・猪俣範網・熊谷直実・羽多野延景・平山季重・関時員・片切影重
な、なんだかワクワクするメンバーです^^

公文所の別当5人
足立遠元・中原(大江)広元・中原親能・藤原邦道・藤原(二階堂)行政
遠元父さん以外はみんな京都の公家出身
知的なかほりがしますね^^

***参考資料***
現代語訳 吾妻鏡7〜頼家と実朝〜:五味文彦・本郷和人
日本歴史学会編集・畠山重忠:貫達人
鎌倉北条氏の女性たち:今井雅晴

六郎重保についてはこちら

畠山国清と新田義興についてはこちら














# by midorikojika | 2022-09-24 10:36 | 鎌倉殿の13人

修善寺の頼家〜愛堂将軍地蔵〜



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愛堂将軍地蔵




源氏になど生まれなければ・・・

もしも私が漁師なら
愛する妻と子のために一番見事な魚を獲ろう。
山がつならば一番大きな獲物を妻子に捧げよう。
田畑を耕し汗をかき、
妻と子供達とささやかだけどに平和に暮らし、
夜はこうして子供達を連れて月を愛でる。

こんな修善寺では当たり前の生活がいかに人として幸せか・・・

ここへ来るまで知らなかった。

源頼朝の嫡男として生まれ、何ひとつ不自由のない生活と大きな期待、
誰もが自分を大切にしてくれる。
それが一番の不自由だったのかもしれない。

期待と不安と孤独と独り戦い、
心の寂しさを女性に持って行った。
立場を利用して人の妻を奪ってまでそれで鬱憤を晴らせた。

若くして多くの側室を持ち、子供にも恵まれたけれど
女たちの嫉妬に嫌気がさし、
無邪気な子供の笑顔だけが癒しとなった。

もしも武士でも何でもない、農民にでも生まれていれば、
そんなことよりも一番大切な家族を守り、
毎日こうして夜空を眺めながら生きられたのに・・・
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修善寺に幽閉された頼家は狩野川の辺りの月見ヶ丘に里の子供達を連れて登り、
月を愛でていたそうです。

子煩悩な頼家は修善寺では子供達と遊んで、地元の人たちから人気があったそう・・・

比企の変で非業の死を遂げた一幡や、
鎌倉に残してきた子供達に思いを馳せていたのかもしれません。

こんな平凡でも幸せな生活を頼家は求めていたのかもしれません。

愛堂将軍地蔵は修善寺で非業の死を遂げた頼家のために
地元の人々によってよく月を愛でていた
月見ヶ丘の中腹に建てられたそうです。
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頼家が月を愛でていた月見ヶ丘
道路が出来て当時の面影はあまり残っていないようです。
愛堂将軍地蔵は修善寺橋のたもとに移されています。
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修善寺にある頼家のお墓
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指月殿
北条政子が頼家の冥福を祈り建立したもので伊豆最古の木造建築といわれています。


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本尊の釈迦如来坐像は右手にハスの花を持っているのが特徴だそうです。
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源頼家家臣 十三士の墓
北条の刺客によって入浴中に暗殺された頼家。
その6日後、頼家の家臣たちが謀反を企てたが挙兵以前に発覚して
殺されてしまったそうです。

吾妻鏡によれば暗君な頼家だけど、そうでもなかったのかもしれません。
比企一族を滅ぼしてしまった北条。
危篤状態から奇跡的に助かってしまった頼家、
その計算の違いがこの悲劇を生んだのですね。

単純ですけど、嘘は泥棒の始まりで
嘘が嘘を呼び嘘を繰り返すのと同じで
悲劇が悲劇を呼び悲劇を繰り返す。
それは15年後の1219年
幕府を震撼させる大事件へとつながるのです。





















# by midorikojika | 2022-08-28 10:17 | 鎌倉殿の13人

北条政子頭髪曼荼羅を見て来ました。

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伊豆山神社で特別公開している、北条政子頭髪曼荼羅

昨年7月に伊豆山で発生した土石流災害から1年。
犠牲者の鎮魂と被災地の復旧・復興を願い期間限定で
伊豆山神社の資料館で公開されています。
(2022'7/28~8/30)

資料館内は撮影禁止なので
上の写真は期間限定の御朱印です。

曼荼羅は縦54cm・横38.5cm
思ったよりは小さかったです。
梵字の部分が毛髪で刺繍されています。
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(写真・東京新聞首都圏ニュースより)

頼朝の一周忌に際し、出家して剃髪した自らの髪を使って刺繍したそうです。
政子さまの強い思いと愛情が伝わります。

伊豆山神社はご存知、頼朝と政子所縁の、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも度々登場する、
伊豆山権現です。
二人が愛を語らったと言う、腰掛け石
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前は目立たない駐車場の方にありましたが、これを目当てに来る人が多いのかな?
本殿手前のわかりやすい場所に移動されていました。
前はなかった縁結びの鳥居♡
ここは頼朝と政子所縁とあって良縁の願いを込めて訪れる乙女たちが以前から絶えませんでした。

前に来たのは5年くらい前でしたがその時は
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この参道から登りました。
長い、長い階段です。
今回はあいにくの雨だったので熱海駅からバスで伊豆山神社のバス停で降りると山道の途中なので
登った階段は半分。
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バスを降りるとザーザー降りだったので半分で良かった〜〜
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ザーザー降りの中びしょびしょになりながら参拝しました。
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この赤白二龍(せきびゃくにりゅう)の手水舎
赤龍は火の力、白龍は水の力を掌り二龍の力を合わせて温泉を生み出しているそう・・・
頭は伊豆山の地底に、尾っぽは芦ノ湖に付け、温泉の湧くところはこの龍の
両眼二耳鼻穴口中なり。
なるほどです。
あの辺りに温泉が多いわけですね^^
ここら辺の詳しいことは資料館に伊豆山神社について書いた絵本が優しく
わかりやすく教えてくれました^^
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こんな風に可愛く優しく案内してくれます。

今回はお天気が悪かったので本宮までは行きませんでしたが、また機会があったら行きたい。
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資料館脇に登り口があります。
本宮まで歩いて1時間弱かな?
写真は5年くらい前に登った時のものです。
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伊豆山神社を出ると雨が止んだのでランチする場所を探しながら熱海駅方面へ歩きました。
そこで見つけたのがこの場所です。
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まさに政子さまが石橋山の戦いの折に隠れてすごした場所です。
頼朝や父や兄弟の安否がわからないまま、不安な日々を過ごしたことでしょう。
土肥実平の子、遠平が安房に逃れるまでの経過を報告にきたとありますが、
鎌倉殿の13人ではその役目は仁田忠常でしたね。

政子さまについて
北条政子と言えば、嫉妬深くて怖い女と言うイメージを持っている人が
ほとんどかもしれません。

確かに浮気は許さない!けど、情が深い女性なんです。
頼朝の浮気相手には容赦ないけど、弱い女性の味方でもあります。

義経の妾・静御前が鶴岡八幡宮で義経をしたう舞を舞ったの激怒した頼朝をなだめて、
静かには鎌倉を去る時、多くの褒美を持たせたのは有名な話ですが、

木曽義仲の妹の宮菊を鎌倉に呼び寄せて養女としたこともあるそうです。
宮菊が京都で、『物狂の女房』と称されていたのを憐れみ、『物狂』の二文字を覗くように指示をして
美濃国の一村を与え、経済的に支援したそうです。

頼朝亡き後、1200年には故梶原景高の妻は御所の官女であり、尾張国野馬・内海をはじめとする所々を領していました。
けれど夫が抹殺された後は隠れ住んでたいそう恐怖の思いを抱いていたところを
その審議をして所領などに関してはこれまで通りとして安堵させました。

また、頼家の娘の竹御所を実朝の御台所・坊門信子(西八条禅尼)の嫡子としたり、
実朝の死後、出家して京都に戻った西八条禅尼に所領を与え、経済的に支援するなど、
常に弱者に寄り添う慈悲深い女性だったようです。

政子さまを怖い女と印象付けた亀の前事件ですが
他にこんな優しい政子さまの一面も多くの人に知って貰いたですね。

流されてしまった橋
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この小さな可愛らしい橋。
由縁は立て看板の通りです。
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山木に嫁がされそうになる政子さまのお話は後からの創作(らしい)ですが
頼朝と政子に由縁があるには違いないのではないかと思いますが・・・

残念な事に昨年の土石流に流されてしまったようです。

昨年の土石流災害からの復興の応援も兼ねての伊豆山神社詣でした。
今もその爪痕は痛々しい姿が見受けられました。
なので熱海で食事やお土産物をと、駅前のアーケードまで行くと、
雨もあってアーケード内は超密な事になっていました。
食べ物屋さんの前には列ができて、立ち食い屋さんも密!
足湯も芋洗い状態で、、、
賑わいが戻るのは嬉しいけど、あまりの密に早々と引き上げました^^;

また時間があればゆっくりと、伊豆山神社・箱根神社と、
何度も行ってるけど平安からの歴史の香りを感じられて好きな場所です。

****************************
参考資料
現代語訳 吾妻鏡:五味文彦・本郷和人
史伝 北条政子:山本みなみ
伊豆山神社ホームページ

















# by midorikojika | 2022-08-21 09:25 | 鎌倉殿の13人

愛犬をお供にゆる?く史跡を巡った日記です


by 子鹿御前
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