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ゆる鎌さんぽ♪最近の活動

こんにちは。
ブログ更新せずにいつの間にか年が変わって2024年
令和だって、あれ?この前始まったばっかりの様な気がしたのだけど、え〜〜〜?6年??
年月の経つのは早いですね。
それが年を取れば取るほど早く感じます。

つまり気がつけばお婆ちゃんな訳です。

だから『今やりたいことはドンドンやらなきゃねっ!』て事で、昨年スタートした『ゆる鎌さんぽ』です。
まだまだ勉強不足でこれで良いのか?と、思いながら、
完璧な人なんていない。東大を出てる人だってまだ勉強が足りないって言うくらいだから
コレで良いなんて思う日はやって来ないんだ。
たとえあんまり上手くいかなくても、志さえしっかりしていれば、その都度修正してより良いものにしていけば良い。
『何事も道のりは険しい』『だからこそ面白い』のです。
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↑朝ドラ ブギウギの生瀬勝久さん演じる喜劇王「エノケン」さんの台詞からいただきましたが、
まさにその通りです。良い言葉だ〜♡

そんなで昨年は手探り状態で始めた「ゆる鎌さんぽ」ですが、毎回楽しみに参加してくれるリピーターさんもいて地味ながら繋がっています。

もう一つ始めたのが、「ゆる鎌さんぽ」お話会
鎌倉の昔の話しをみんなで語り合う会です。
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勿論聴いてるだけでもOKなので、お茶する気分で参加してもらっています。
コレも初めての試みで、ドキドキでした。
自分が司会進行役でお話なんかするのもやった事がないし、
一人で喋るのではなくて参加者の皆さんで語り合う形にしたかったので出来るだけ偏りがない様にしたいし、
上手く出来るか当日の現場まで何にもわからずでしたが、始まってしまえば始終和気あいあいと
皆様に楽しんでいただき、そして何より自分が一番楽しんでいるのでは?と思います。

そしてもう一つ昨年の秋から始めたのがYouTube番組ブシトーーク!!です。
吾妻鑑を読みながら武士があーでもないこーでもないと雑談する番組です。
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毎月鎌倉で歴史サロンを開催している鎌倉智史さんからお誘いをいただいて岡田英之さんと、吾妻鏡を読みながら3人で雑談、そこへ天の声の笠井千恵さん、たまにゲストありです。
写真の通り髭面の武士〜のお2人と、なんちゃって武士のわたし(笑)

お2人は大河ドラマ鎌倉殿の13人で何度もエキストラ出演しているんですよ〜

そしてお2人とも歴史にはめちゃくちゃ詳しく、ガイドの他に講師もされています。
このブシトーークを始めて改めて吾妻鏡を丁寧に読んでみると、知ってるつもりで知らなかった色々な気付きがあって面白いです^^。

子供の頃は鎌倉の山やヤグラが遊び場だった、地形からも鎌倉を知り尽くしている鎌倉さんと
その時代の文化や風習にも詳しい岡田さんならではの解説、冷静に囁く千恵さんの天の声と、生ライブでコメントを入れてくださる
視聴者の皆さんの見解も交えてまさに雑談しながら吾妻鏡を楽しんでいます^^

隔週火曜日8時から生配信です。
次回は2月6日火曜日夜8時から
いよいよ山木攻めなので、鎧着用で頑張ります😄

そんな感じで色々やっていてブログの更新ができすにいました。
ネタはいくらでもあるんですけどね(^^)

ついでにこの先、2月3月のゆる鎌さんぽは2月17日
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源実朝を暗殺した甥の公暁。
彼が実朝の首を抱えて逃げたであろう道をご案内します。
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1月にご案内した建長寺ですが、2回目が雨で3月に延期になりました。
建長寺に行った事のある人でも知らなかった建長寺のいろんな話しを交えながらご案内します。
私自身も建長寺を改めて知って感動したので是非沢山の方にこれを伝えたい!面白いこと間違い無しなのでご興味ありましたら是非ご参加ください。
お散歩は毎回定員を8名までにしています。
今までの経験上、みんなに声が届いて歩いていても分散したり迷子にならず、私も参加者さんも楽しくコミニケーションを取れる人数が最大8名なので。


また3月のお話会は『鎌倉の平家』鎌倉にいた平家の人たちの『へぇ〜〜〜』なお話
4月のお話は『Happy Birthdayよりとも!』4月8日がお誕生日の源頼朝を歌と食でお祝いします。
(歌と食って頼朝の和歌と食べていた物のお話です。私たちが歌ったり食べたりではないです^^;)

ブログの更新がなかなかで出来ないのでこまめに出来るインスタに多く投稿しています。
ゆる鎌散歩の情報の他に日々訪れた史跡や今日は何の日的な投稿もしておりますのでフォローいただけると嬉しいです。
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ブシトーークはこちらからお入りください。
アーカイブで初回からも見れますのでご興味ありましたらみて下さい。









# by midorikojika | 2024-01-29 10:45 | ゆる鎌さんぽ

ゆる鎌さんぽ♪23'10月は三浦按針を訪ねます♪

こんにちは♡
ゆる鎌さんぽの鎌倉歴史案内人、子鹿御前です^^

10月のお散歩コースが決まりました〜〜
〜ゆるくない逸見さんぽ〜
三浦按針を訪ねる横須賀逸見

大河ドラマ『どうする家康』観てますか?
私は挫折しました(笑)
しか〜し!
観なくてはならなくなりました!
なんと!三浦按針ことウイリアムアダムスが登場する!
演じるのは村雨辰剛さん

私は三浦按針には特別な思い入れがあって兼ねてから大河の主役になることを願っていました。
なのに戦国大河・・・主役どころか存在さえないかのようにかすりもせず、
こんな重要な人を何故スルー?と思っていましたが今回の家康で晴れて登場!
演じる村雨さんは三浦按針役を演ってみたかったとの事。
私も昨年の朝ドラで村雨さんを観てからもし按針が大河の主役になるなら村雨さんが良いなぁ〜って思ってました。
まぁ主役ではないけど、今からワクワクドキドキです♡

ところで三浦按針の事は歴史の教科書ではほんの数行書いてあっただけなのでほぼ覚えてないし、
何した人??外国人?どこの国の人?って思う人が大半なのではないかと・・・

そこでゆる鎌さんぽでは、いつかやりたかった按針を訪ねる横須賀逸見さんぽをこの秋決行することを決めました。

神奈川県横須賀市逸見は、三浦按針が220石(250石とも)の知行地をもらい領主となって収めていた場所です。
江戸時代に外国人が領主だったと言う、歴史上大変重要な町です。

逸見には按針の死後、その遺言により江戸が見渡せる場所に『按針塚』が建てられました。
按針の屋敷も逸見にあり、日本人妻の雪さんと二人の子供と暮らしていました。
そんな按針の里とも言える逸見の町を訪ねるお散歩
題して『〜ゆるくない逸見さんぽ〜三浦按針を訪ねる横須賀逸見』 を10月に開催決定!!

『ゆるくない』のは、按針塚のある塚山公園は江戸が見渡せるだけあって山の上です。
(かと言って登山ほどではないのでご安心ください。坂多めくらいの感じです)
塚山公園からは横須賀の港も見えてそれは良い眺めです。

わたくし、子鹿御前的には逸見は明治・大正時代にご先祖様が暮らした町、
逸見なくして子鹿御前も無しでありますので・・・この企画には力入れてます!
(いつももチカラ入ってますけどね。)

日時:2023年 10月14日(土)10:00~
11月6日(月)10:00~
集合場所は京浜急行逸見駅です。
両日定員8名までとさせていただきます。
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ご参加お待ちしております^^子鹿御前


















# by midorikojika | 2023-08-30 15:40 | ゆる鎌さんぽ

ゆる鎌さんぽ♪23'秋から冬のコースです^^



こんにちは
ゆる鎌さんぽの鎌倉歴史案内人、子鹿御前です。

暑いですね〜〜〜
何度言っても変わりはしないけど、一言目には『暑い』しか出て来ません^^;;;

ゆる鎌さんぽは6月から8月まで充電期間をいただくと宣言しましたが
ついでに9月も充電しちゃいま〜〜す^^

なぜなら『暑いから』(笑)

『ゆる鎌さんぽ』は比較的沢山歩きます。

この暑さ・・・少しは和らいだとしても9月いっぱいは続くかと思われます。

参加者さんの体調も考慮してもう少し過ごしやすくなる10月からの再開といたします。

その秋からのコースも素敵楽しいコースを予定しています。
まだ仮題ですが大体を決めました。
今からワクワクしている子鹿御前です。
予定表を作ったのでご覧ください。

こちらはinstagram/Xでも告知します。
はっきりした日時が決まり次第上書きして行きますので気になる方は
instagramをフォローしていただければ最新の情報が見られますのでよろしくお願いします。
2023/8/吉日 
子鹿御前



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Instagram/yurukamasanpo
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# by midorikojika | 2023-08-20 12:25 | ゆる鎌さんぽ

大慈寺と実朝と和歌

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ここは鎌倉市十二所
奥鎌倉とか鎌倉の奥座敷とか呼ばれていて御所からはちょっと離れています。
ここに大慈寺という源実朝が建立した大きなお寺があったそうです。
いつ廃寺になったのかは不明ですが現在の明王院から東一帯がその大慈寺の旧蹟で、
今は住宅地になってこの辺りに大慈寺がありましたよ〜という碑と、
マニア的にはここは??ん?
何の跡だろ〜〜〜♡とワクワクさせてくれる小さな石仏が残るのみです。

この大慈寺
建立の記録は吾妻鏡において1212年4月18日に始まります。
実朝の立願で『君恩父徳』に報謝するため
君の恩と父の徳
君は後鳥羽上皇、父徳の父はもちろん頼朝です。

この日建設工事が始まった大慈寺は、
後に勝長寿院(廃寺)の『大御堂』に対して『新御堂』と呼ばれたそうなので
たいそう大きなお寺だったそうです。

鎌倉廃寺辞典・吾妻鏡によりますと、その年の10月11日
実朝は大慈寺の工事の経過を見るため大倉郷へ出かけます。
(当時この辺りは大倉郷と呼ばれていたようです。)
北条義時や他多くの人が付き添いました。
『ここは河もあり、山もあり、木水共に便宣を得て地形の素晴らしさは仙人の住まいのようだ』
と、褒められたそうです。

この時、三善康信が京都から取り寄せた山水の絵図を実朝に献上すると
とても気に入ってくれたそうです。

三善殿と実朝の和かな笑顔が想像できちゃいますね^^

そして三善殿は言いました。

『去る建久九年十二月の頃・・・(1198年の12月です)
夢想の告があり、(来た〜〜〜夢のお告げ!←この時代は夢のお告げを信じてた)
先君(頼朝)のお供で大倉の山辺に来ると、一人の老人が現れこう言いました。

「この地は清和天皇の時代に文屋康秀が相模掾として住んでいた場所である。
精舎(寺院)を建てなさい。私が鎮守となろう」

夢から覚めた後、この旨を(頼朝に)申し上げました。
そのころ幕下将軍(頼朝)は病気の最中で
『元気になったら堂舎の造営をしよう』と仰りましたが翌年正月に亡くなられてしまいました。
今それが実現したことは夢の感応であります』

ほほう・・・えっ?
それじゃあ頼朝は亡くなる一ヶ月前には病気で伏せっていたってこと?
吾妻鏡には頼朝が亡くなる前後がぱかっと抜けちゃって
そのころの様子が全くわからないけれど何年も後に
落馬して亡くなったという記述がある。
きっと病気なのに無理して橋供養に出かけてその帰りに気を失って
馬から落ちてしまったのですね。。。
でもその病気が気になる。
ちょっとずつちょっとずつ、北条に毒を盛られて体調を崩していたのでは??
吾妻鏡の空白の時間にそれは行われていたのか??

まぁ考えても仕方ないことです。

話が反れてしまいました。
三善殿の夢のお告げの話に側にいた僧が突っ込みます。
『古今集の事書には文屋康秀は参河掾として下向しようとして小野小町を誘い出したと言います。この二人は仁明天皇の御代の人です。清和天皇の御代に当たるでしょうか?』
三善殿は
『夢の中のことはまことに証明しがたいものですが、古い除書を見ると康秀は元慶三年に縫殿助に命じられているそうです。ですから清和天皇の時代に仕えていたことは間違えないでしょう。相模掾のことは未だはっきりしません。』と、返します。

さすが三善殿!
実朝は感心してこの御問答を記録させ、この寺の縁起を作り、
この夢記をその始まりと命じられたといいます。

ところで文屋康秀って誰?小野小町??
なに?なに?なぁに?

わたくし子鹿御前・・・
最近和歌を勉強しています。
全く予備知識無しの初心者なので和歌や古典に詳しい方なら当たり前に知っている事だとは思いますが、
文屋康秀小野小町も清和天皇の時代(800年代)の歌人で六歌仙に選ばれています。
*六歌仙とは古今和歌集を編纂した紀貫之が選んだ和歌に優れた6人の歌人
他に、在原業平、僧上遍昭、大友黒主、喜撰法師

そして一番わかりやすいのが百人一首にも選ばれている
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我が家に私が生まれる前からあった百人一首のかるたです^^
子供の頃坊主めくり専門だったー(笑)

小町ちゃん、センターです。

だってクレオパトラと楊貴妃と並んで世界三大美女の一人だったんですよ〜
きっと見とれてしまってため息が出るくらい美しかったんだろ〜な〜

在原業平は『昔、男ありけり』から始まる伊勢物語の主人公かと言われていて
ルックスは美しく自由奔放な性格で平安時代を代表するモテモテ男と言うか、
恋多きお方だったようです。
一説によると一生のうちに枕をともにした女性は3733人?(よく数えたな^^;絶対盛ってる)
若い娘から上は99歳まで(年齢まで盛ってるな笑)

この小町ちゃんと業平くん、付き合っていたことがあるらしいんです。

そして、文屋康秀は先ほどの僧が言った通り、三河掾に任ぜられた時、小野小町を
『ボクと一緒に三河国に行かないかい?』と、誘っているそうです。
それに対しての小町ちゃんのお返事は
『わびぬれば 身をうき草の根を絶えて さそう水あらば去なむとぞ思ふ』
(こんなに落ちぶれてしまった辛い身なので我が身を浮き草のように根を断ち切って誘う人さえあればどこにでも一緒について行こうと思います)
え〜〜〜〜OKってこと?ですよね〜
本当について行ったのかは謎だそうですが、
落ちぶれて・・・って、きっと花の盛りを過ぎた年齢の頃なんだろうな〜
小町ちゃんって絶世の美女だったからそれを鼻にかけているところもあったらしく、
絶世の美女ゆえに老いて劣化していく自分が相当辛いものだったようで、、、
『花の色は 移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに』
(あんなに美しかった桜も長雨に降られているうちに色あせてしまった。かつての私の美貌も物思いにふけりながら世を過ごしているうちにすっかり衰えてしまった)
なんか・・・同じ女子としてわかりますね^^;
美女じゃなくても劣化の気になるお年頃なので友達との会話で必ず盛り上がるのが
美容の話!
それと介護と自分の老後の話 年金はいつから貰うのがお得とか(笑)

それと小野小町は自分が見た夢を歌にしています。
『思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを』
(一途に思いながら寝たからあの人が夢に出て来てくれたのかしら 夢だとわかっていたら、目なんか覚まさなかったのに)
当時は相手が自分を思ってくれると夢に出てくると信じられていたそうです。
夢の中でも好きな人に会いたいって切ない恋心
これも誰もが共感するところですね。

大慈寺と三善殿の夢の話から小野小町の話に飛んでしまいましたが、
実朝も小野小町や文屋康秀、在原業平の和歌を詠んだはず
そしてこのお三方の逸話も訊いていたんだろうな〜
そう思うと、実朝が短かに感じるのは私だけ?
もしもタイムマシーンで1212年へ行けたなら、実朝と和歌の話で盛り上がれる^^
これは楽しい♡

もっともっと和歌を知りたくなった子鹿御前であります。










# by midorikojika | 2023-08-02 12:49 | 鎌倉時代

ゆる鎌散歩〜平家の赤旗と日蓮の弟子たち〜①

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毎年4月の鎌倉まつりが始まると、その日から5月末まで
材木座にある補陀落寺では、平家の赤旗が特別公開されます。

4月と5月のゆる鎌さんぽはそれを目的にコースを考えました。
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上の様なコースにしましたが今回ここでご紹介するのは太赤字の
常栄寺(ぼたもち寺)・妙法寺・実相寺
日蓮の弟子関連のお寺からにさせていただきます。

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まずはこのコースの中で一番鎌倉駅に近い常栄寺からですが、
その前に、妙本寺の山門の前でご説明させていただきました。

妙本寺は比企一族の館跡に建立されています。
開基は比企能本
比企能員の末子です。
『鎌倉殿の13人』での比企の変の回は妙本寺好きな子鹿御前としては神回でしたが
なんとも悲しい結末でした(泣)

この能本くん(くまモンじゃないよ。よしもとだよ^^)
お母さんは三浦一族の娘で、乱には巻き込まれず助かります。
その後、和田義盛に預けられ安房に渡ります。
三浦一族は安房にも所領があったからね〜
そしていつの頃かは定かではありませんが、京で順徳天皇に支える様になります。
承久の乱で順徳天皇が流されるとそれにもついて行きますが、
1230年
姪にあたる竹御所(頼家の娘)藤原頼経(四代将軍の結婚を機に鎌倉へ戻ります。
1253年
能本(60歳)は日蓮の弟子となり、比企一族の館跡に法華堂を建立し、
それが妙本寺の前身となりました。
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『長興山 妙本寺』
長興はお父さん能員の、妙本はお母さんの法名だそうです。
なんだか泣けてきますね。

前置きが長くなりましたがそのほど近くに常栄寺はあります。
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通称ぼたもち寺
鎌倉時代、頼朝が由比ヶ浜の放生会を見物するために、
この裏山に展望台の様な*桟敷を設けたと言われています。
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こちらは放生会の様子です。

ぼたもち寺のいわれ
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1271年
囚われの身となった日蓮が瀧の口刑場へ裸の馬に乗せられて連れて行かれる時
桟敷尼が胡麻のぼたもちを作って『仏のご加護があります様に』と、日蓮に
差し上げました。
その後、奇跡が起こり日蓮は処刑を免れたので『首繋ぎのぼたもち』と言われ有名になります。

桟敷尼の夫、印東二郎祐信は宗尊親王(六代将軍)に支えていました。
夫婦共々日蓮に帰依し、境内には二人並んだお墓があります。
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尼の法名が『妙常日栄』と言い、常栄寺の寺名はこれにちなんでいるそうです。

そして尼の妹は比企能本の妻の理芳尼です。


ここでクイズです!
処刑場へ連れていかれる日蓮に桟敷尼が鍋蓋に胡麻でまぶした餅を差し出します。

『日蓮さま、どうぞこの『かいもち』をお召し上がりください』

ん・・・?あれ?
ちょっと待って・・・『ぼたもち』じゃないの??

そうなんです。鎌倉時代に『ぼたもち』という言葉はなかったのです。

『徒然草』に北条時頼が足利義氏のお家を訪ねた時に出された献立が
鮑(あわび)、海老、かいもちひ・・・だったらしいと記されています。
この『かいもちひ』が今で言う『ぼたもち』だと言われています(そばがき説もあり)

では、いつから『ぼたもち』と呼ばれたのでしょう?

それは江戸時代頃からと言われています。
徳川吉宗の時代に出版された『町人ぶくろ』と言う教訓書に
『今のぼたもちと号するものは禁中方に手は萩の花と言ひて』と書かれていて、
『萩の花』(おはぎは女房詞)は上流階級の言葉で『ぼたもち』は庶民の言葉だったことが分かります。

『ぼたもち寺』と言う名前に親しみを感じるのはそのせいでしょうか?
さて、洒落好きな江戸の人ですから当然『ぼたもち』も他の呼び方があります。
『夜船』いつ着く(搗く)かわらない
『北窓』月(搗き)なし
『はんごろし』(搗ききらないから)
これらは今でも和菓子屋さんで商品名で残っています。

さて!
ここで問題です。

ぼたもちは『隣知らず』とも呼ばれていました。なぜでしょう?
(時代劇に出てくる長屋を想像してください)

①知らない隣とは付き(搗き)合いがない
②杵を使わないので『ぺったんぺったん』音がせず隣が気がつかない。
③あまりに美味しいので全部食べてしまい隣にお裾分けできない
④縁起物なので長屋中に」配っていたから(両端の家には隣がない)

答えは解説付きで後日UPしますね〜〜(笑)

実相寺
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源頼朝の重臣だった工藤祐経の邸跡に孫の日昭が開山したと伝わります。
工藤祐経といえば曽我兄弟の仇討ちで射たれてしまったあの人です。

曽我物語を知っていれば、
あ〜工藤祐経の子供って犬吠丸?その子供?って思うかもしれませんが、
祐経には他に息子二人と娘がいた様です。
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この家系図で、その娘が妙一尼で、
その子供たちが日昭始め、皆日蓮に帰依しています。
そこでよ〜くこの家系図を見ると印東祐信・・・
ぼたもち寺の桟敷尼の夫ですね〜
その隣の理縁尼って書いてあるのは日蓮にぼたもちを渡した桟敷尼なんです。
なんだか繋がります。
そして池上さん
今の東京都大田区池上に館がありました。
日蓮は晩年、病治療のため身延山から現在の茨城県へ向かう途中に
池上宗仲の館に立ち寄った際に『長栄山本門寺』と命名したのが池上本門寺の始まりであると伝わります。

日蓮六老僧

1282年10月8日
日蓮が池上の地で最後の説法を行った際に
日昭日朗日興・日向・日頂・日持の6人を『六老僧』としました。
その後、10月13日 多くの弟子に看取られて日蓮はその波乱の生涯を閉じたのでした。


日蓮四大法難
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日蓮の四大法難をまとめました。
この四で日蓮が佐渡に流されている間に弟子たちの拠点として
開いた濱土法華堂が始まりで日蓮入滅後1284年に法華寺として開山したのが
このお寺の始まりとされています。
本堂裏の墓地に日昭のお墓があります。
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妙法寺

楞厳山妙法寺(りょうごうさんみょうほうじ)
中興の日叡の幼名が(りょうごう丸)

日蓮が鎌倉へ入って最初に草庵を結んだ場所で、
『松葉ケ谷法難』の舞台となったと言われています。
(同じ松葉谷にある安国論寺、長勝寺も同じ伝説があります)
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日蓮の庵跡
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江戸時代には将軍徳川家斉も訪れたため、総門、仁王門、法華堂を朱塗にしたと伝わります。
苔の階段が有名なお寺でもありますが
一説には那須与一邸跡地とも言われています。

あの那須与一です!
松葉谷は、
与一の的場があったから、的場谷(まとばがやつ)・・・
まつばがやつ・・・松葉谷と変わって行った説と、また
松の木が沢山あったから日蓮が松葉谷と呼ぶ様になったとも言われています。

中興開山の日叡は、1335年鎌倉で足利直義に殺害された護良親王の子
日蓮開山の本国寺があったこの場所に日蓮の遺跡を守るためと、
父の菩提を弔うために妙法寺として再建したと伝わります。(本国寺は1357年京都へ移る)
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裏山には日叡のお墓と、母の南の方(雛鶴姫)のお墓があり、さらに山頂には
護良親王のお墓があります。
そこからの景色が絶景です
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由比ヶ浜から稲村ヶ崎まで一望です。
お天気の良い日にオススメ
ここまで上がるのに雨の翌日なんかは道がぬかるんで滑りやすくて危ないので要注意です。


最後にクイズです
実相寺からの出題〜〜
実相寺は工藤祐経の屋敷跡に建てられました。
工藤祐経と言えば鼓です。
平重衡の宴の席では鼓を打ち今様を歌い、また、静御前が頼朝の前で舞を披露した時も鼓を打っていましたよね。
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さて、みなさん。静御前の『初音の鼓』をご存知ですか?

それは、千年長生きした夫婦狐の皮を使った鼓で長らく宮中にありましたが、後白河法皇から義経に
『鼓(頼朝)を打て』と下賜され、そして義経の都落ちの際、形見として静御前に渡りました。
やがて義経の行方を知っているとして鎌倉方に捕らわれそうになる静かですが、義経四天王の一人、
佐藤忠信が現れ追い払ってくれます。そして静は忠信に守られながら吉野を目指します。
しかし、この忠信は鼓の皮にされてしまった夫婦狐の子狐が化けた『狐忠信』だったのです。
『初音の鼓』は朝廷の宝になり近づく事も出来なかったのですが、宮中を離れ静の手元に預けられた
ので忠信に姿を変えて守護していたのでした。
そして静は吉野で義経に再会します。しかし義経の側には本物の佐藤忠信が!
どうする狐忠信!
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『な〜んだ歌舞伎の話か』
と、思ったみなさん、『初音の鼓が実在したとしたら話が変わってきませんか?
MIHO MUSEUMの所蔵品に雷雲蒔絵鼓胴』という文化財がありまして
元々は琵琶湖竹生島の宝厳寺が所有していた物です。

この鼓胴に付属されていた2つの所蔵があり、片方の朱印状にこうゆうことが書いてあるのです。
『静所持候□□小鼓筒の蒔絵ハ雷に候由候、可被見候、
猶磯野可申候 恐々謹言 九月六日 信長(朱印)』
(そっち(宝厳寺)にある静所縁の鼓胴の蒔絵は雷らしいね。是非見てみたいなぁ♡
家来の磯野員昌を向かわせるからヨロシクね。 信長より)どうですか? ワクワクして来ますよね!
『義経千本桜』が書かれる173年も前に静所縁の鼓が存在しているのですよ。
興味ありますよね
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MIHO MUSEUM
ホームページよりお借りしました。

ここで問題です
『雷雲蒔絵鼓胴』その銘の通り雷の紋様が描かれています。
これは『音が鳴り響きますように』という意味が込められているのです。
このように多くの鼓胴には願いを込めた紋様があるのですが
次のうち適当でないものはどれ?

①人参:馬喰う(上手く)演奏できるように
②蕪:根(音)が大きく鳴るように
③根付の松:根(音)が長く伸びるように
④蒲公英(たんぽぽ):タンポンポンと良い音がするように

なんか、、、
昔っから日本人って駄洒落が好きですね^^

ってことで答えはまとめて後日UPします。

気長に待っててくださいね〜〜〜


















# by midorikojika | 2023-06-11 19:05 | ゆる鎌さんぽ

ゆるく楽しく歴史も学びながら皆さんに鎌倉をご案内してます。日記はご案内以外に歴史の逸話etc


by 子鹿御前