1205年6月22日 二俣川で畠山重忠が討死します。
『鎌倉殿の13人』でもその回は涙なしには観られませんでした。
今回はその時、妻や子供たち、側近たちはどうしていたか?と、その後のお話しです。
①子沢山な重忠
重忠の子供と言えばすぐに思い浮かぶのが六郎重保です。
かわいそうに由比ヶ浜で訳のわからぬまま謀反人にされて討たれてしまいます。
*重保のその時は当ブログ『畠山重保と望夫石』をご覧ください。
重保は嫡男でしたが上にお兄さんが4人くらい(?)いました。
お母さんは北条時政の六女で、重忠といつ結婚したかはわかっていませんが、
1164年生まれの重保が20代後半くらいの頃ではないかと言われています。
その前に4人のお兄さんの一人、重秀は菊の前と言う、足立遠元の娘がお母さんです。
他のお兄さんたちは誰が生んだのかわかっていませんが、
他に何と!母不明の子が、
忠澄(薩州下向)
忠煕(大月市染川畠山祖)
重成
重俊(宮ノ原加藤氏祖)
重高(佐々木高綱養子)
重尚(鹿児島入来町高橋氏祖)
重政(井田氏祖)
重慶(日光に逃れ8年後謀反の疑いで殺害される)
松尾姫(長野佐久島氏祖)
子沢山ですね〜〜〜しかも男子多産系^^
子沢山のわりには妻として知られているのは北条時政の六女と、
菊の前ちゃん、側近の本田近常の娘くらいです。
この本田近常の娘が生んだ女の子が島津忠久室です(諸説あり)
重忠のやつ、、、いろんな所で種まいたな(笑)
そして菊の前ちゃんが生んだ梅菊と言う女の子が日蓮のお母さん説もあります。

これ、追いかけて行くと切りないですが面白いです。
いつか時間が出来たら日蓮の生まれた房総を再度旅して調査してみたいですね^^
②重忠と運命を共にした者
さて、二俣川の戦い当日、
同行したのはわずか百三十騎で元々戦の準備などしていなかったので多勢に無勢・・・
それでも6時間に及ぶ戦いの末、愛甲三郎季隆の矢によって重忠が討死すると、
側近の本田近常、榛沢六郎成清、菊の前との息子の重秀は自害しました。
そして、重忠の後から二俣川に籠で駆けつけた菊の前ちゃんは
夫の討死を知るとその場で自害しました。
自害した場所に籠のまま埋葬された籠塚は今も地元の方々に大切にされています。

③菊の前と遠元父さん
菊の前は13人のひとり、足立遠元の娘です。遠元父さんは1130年(?)の生まれで平治の乱では
*源義平(悪源太)率いる17騎の一人として活躍して乱後、伊豆に流された頼朝と交流し、1180年8月、頼朝が挙兵すると配下に加わります。石橋山の戦いには間に合わなかったけれど、10月2日、隅田川付近にて豊島清元、葛西清重父子を迎えに上がります。10月8日には頼朝から東国武士への最初の本領安堵として武蔵国足立郡を安堵されます。1184年公文所の吉書始めが行われて*5人の寄人の一人となります。他は皆京の公家出身者の中、東国武士として唯一文官として選出されています。
そんな遠元お父さんには3人の娘がいました。藤原光能の妻(藤原光能って神護寺に頼朝と平重盛と肖像画が残ってる人です)菊の前そしてもう一人は北条時房室です。
娘の家族をもう一人の娘の家族が滅ぼすって・・・(泣)お父さんはさぞかし苦しい立場だったのではないかと思います。目がピクピクしてしまうのもわかりますね。。。
1207年3月3日、闘鶏会に参加した記事を最後に吾妻鏡から姿を消しているのでその後間もなく亡くなったのではないかとされています。
④畠山は続く重忠亡き後、正妻の北条時政の六女は足利義純と再婚します。そして生まれた泰国に畠山を名乗らせます。義純を初代、泰国を二代とした源姓畠山はのちに足利尊氏が開いた室町幕府を支える有力武将になって行きます。*足利基氏に仕えた畠山国清は新田義興をだまし討ちした卑怯者!
こんな卑怯な奴が重忠の子孫のはずないと思ったらやっぱり血は繋がってませんでした。(良かった〜〜)^^;畠山国清がどんな卑怯を働いたかは大田区の新田神社のHPを観てください。
⑤畠山重慶
重慶(ちょうけい)は生まれ年も母も不明ですが重保より下の子の様です。
二俣川で重忠が討死すると、上小寺に曾祖父の重遠を頼り、重忠の遺髪を埋葬し、自分は慈光寺の別当を務めたそうです。
その8年後 1213年9月19日日光山別当の法眼弁覚からの使者から『重慶が謀反を企てている様だ』との報告がありました。時の将軍 源実朝は長沼宗政に重慶を生捕りにしてくる様命じます。が、下野国から戻った宗政は重慶の首桶を持参。実朝は『畠山重忠は罪無くして誅殺された。その未子が陰謀をめぐらしたとしてもまずは身柄を連れて参上し、陰謀の如何によって処分すべきところを殺してしまうとは・・・』と、嘆いたそうですが、それを聞いた長沼宗政は『重慶の謀反は疑いない。生け捕るのは容易でしたが直ちに連れて参上したならば政子や女官らの申請に従って許してしまうだろうから殺しました」と。めちゃ自己判断ですね^^;そして更に『こんな事では今後は誰が誰が忠節をいたしましょうか。これは将軍家の御過失です。中略頼朝は武備を重んじていたのに当代(実朝)は歌や蹴鞠を業として武芸は腐れている。女性を重んじ勇士はいないかの様です。』と、なんとも無礼な言葉をはいて立ち去ったそうです。
長沼宗政は暴言が多くて問題だったとか^^;
長くなりましたが畠山重忠の妻と子供達でした。オタク的覚えでもあるこのブログです。まだまだ追うと沢山ありますが、基本的にはその人物のゆかりの地を尋ねてからブログにまとめていますのでその時間がなかなか取れません。また、せっかく尋ねてもブログにまとめる時間がありません。
またいつになるかはわかりませんが重保の子供のこと、日蓮の生い立ちなんかもまとめて行きたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。
********************源義平十七騎の遠元父さん以外のメンバー鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊道・斎藤実盛・岡部忠澄金子家忠・上総広常・猪俣範網・熊谷直実・羽多野延景・平山季重・関時員・片切影重な、なんだかワクワクするメンバーです^^
公文所の別当5人足立遠元・中原(大江)広元・中原親能・藤原邦道・藤原(二階堂)行政遠元父さん以外はみんな京都の公家出身知的なかほりがしますね^^
***参考資料***現代語訳 吾妻鏡7〜頼家と実朝〜:五味文彦・本郷和人日本歴史学会編集・畠山重忠:貫達人鎌倉北条氏の女性たち:今井雅晴他
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