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三浦道寸を訪ねて

今からおよそ500年前、永正13年(1516)
7月11日
三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)が北条早雲(伊勢新九郎長氏)の軍との
壮絶な戦いの末、自決して450年間三浦半島を治めた名門三浦氏が滅びました。

その三浦道寸と息子の荒次郎義意を供養するお祭り
『道寸祭り』に行って来ました〜
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毎年5月最終日曜に行われるこのお祭りでは三浦一族お家芸の笠懸が催されます。

そして歴オタ的一番の見ものは普段は見れない『新井城址一般公開』です。
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今は東大の臨海実験所で普段は入れません。この日だけボランティアガイドさんの説明つきで中を見れます。
と、言っても本丸のあった場所に東大の実験所があって遠くから見る事しかできませんが。。。

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新井城見学の後はお祭りの会場へ。
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最初は道寸、荒次郎親子の供養から
お坊さんが来てお経を上げます。
その後、和太鼓演奏や立身流兵法の演式(ほとんど見えなかった)の後、
笠懸です。
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馬を走らせながら的に矢を
しかもカーブした砂浜の上を走る・・・なかなかの技です。
武田流弓馬道一門のみなさんでしたが女性の射手もいてかっこ良かったです^^
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これは三浦道寸の供養塔です。(去年訪れた時に撮影)この近くに荒次郎の供養塔もあります。
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うつ者もうたるる者もかはらけよ、砕けて後はもとの土くれ  

道寸は歌人であり能筆家でもあり戦国期の武人として古典の素養に富み、武断一辺倒でなく、文化的にもすぐれた人物で「文武二道の良将」と言われていたそうです。
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3年の篭城の末、遂に食糧も尽きて1516年7月11日の朝、城門を開いて打って出て一族は滅びました。最後の戦いは凄まじく、新井城から見える湾が血で油の様に赤く染まったことから
油壺と言う名前が付けられたそうです( ꒪⌓꒪)

落城前の最後の宴の時、『逃げたいものは逃げろ』と道寸は言いましたが逃げ出す者は1人もおらず、3年間の長い篭城の間も1人の裏切り者も出さなかった事は、道寸、荒次郎の人間的魅力があった事を物語っているのではないでしょうか?

お祭りが終わってから伝説の地を歩きました。
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義士塚です。
住宅や畑の真ん中にぽつんとあって探さないとわからないくらいですが、
ここは三浦荒次郎が敵陣に切り込んだおり、
三浦道寸の子にして、弱冠ながら身の丈は七尺五寸、今にして2メートル27センチ(それは無いと思うが^^;)
巨漢であるばかりか、筋骨隆々として髭は濃く、八十五人力と評されるほどの勇猛果敢ぶり
・・・
2m27cmの身長はさすがに・・・だけど、身体が大きくていかにも強そうな人だったことは確かでしょう・・・
その荒次郎が2っもの金棒を振り回すから北条方の軍勢もただ見ている事しか出来ず、
『あの男を斬れ!褒美は思いのままぞ!』の声に
豪勇の誉れ高い若武者四人が荒次郎に立ち向かうも、たちまち倒されねじふせられ、刃を向けられ覚悟を決めた四人に
「その武者ぶり、まことに天晴れなり。いまここで討ち取るのはたやすいが、これほどの人物なら、必ず世の為に役立つであろう」と、許す荒次郎。
この時、四人の若武者はいつかこの恩に報いようと固く心に誓ったそうな・・・
しかし、それから程なくして、追い詰められた荒次郎義意は自らの首を掻き切って自害。

四人は荒次郎義意と道寸義同が死んだ事を知るや、その恩義に報いるときは今と、道寸父子の後を追い自刃してしまった。
この話を聞いた村人達は、四人が自刃した地に塚を2つ造り、この若武者四人をねんごろに弔ったとも、他にも大勢の亡くなった北条方の武士たちの塚とも言われているそうです。

荒次郎の首は空を飛び小田原城近くの井神の森の古松の枝にかかり三年間眼を開いたまま落ちずに通行人を睨みつけ城下の僧が代わる代わる供養しても成仏しなかったが、久野総世寺四世の忠室存孝が松の下で読経をし
「うつつとも夢とも知らぬひとねむり、浮世の隙を曙の空」と詠むと成仏したという伝説があります。
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ここは大きな通り沿いに目立たなくあるお地蔵さんです。
なかなか見つからなくて警察で聞いてもわからず、近くのパン屋さんで聞いても知らないと言われ、、、、しかしその30m先くらいにあった^^;;
そのくらい目立たず通り過ぎそうな・・・・このお地蔵さんは・・・

当時、引橋のたもとで老夫婦が営んでいた茶屋は行き来する商人や武士に愛され、繁盛していたそうな・・・
三浦と北条の戦乱のころ、北条氏の間者が行きずりの百姓に化けてこの茶店に立ち寄り、
三浦方の様子を聞くので、人の良い老夫婦は笑顔をほころばさせながら、自慢げに新井城のことをすっかり話してしまった。
三浦一族が滅びこの地が北条のものになり、『誰かれかまわずお城のことを自慢げに話してしまって城が落ちてしまったのなら三浦のお殿様に申し訳ない』と自負の念にかられた老夫婦は償いにと心中してしまったそうです。

のちにこの夫婦の非業を知った村人が茶屋のあった場所に夫婦地蔵を祀り供養したという・・・

なんだかこれも悲しいお話です。

最後に後北条に攻められ道寸と荒次郎が自害して三浦一族が滅んだその74年後、
後北条は秀吉による小田原攻めにより小田原城を開城
得意としていた篭城戦もあの一夜城といい、海からも陸からも囲まれ遂に降伏・・・
北条氏政と氏照は切腹を命ぜられ7月11日、そう・・・
三浦一族が滅んだ74年後のその日に五代続いた後北条氏は滅亡します。

道寸親子の亡くなった更に291年前の7月11日は
鎌倉の北条政子が亡くなっています。

北条、三浦、後北条、三浦、、、、
北条に滅ぼされたと思ったら〜今度は後北条に滅ぼされ〜〜〜
7月11日って因縁めいた日ですね〜
あ。政子さんは普通に寿命を全うしてます^^。
by midorikojika | 2015-07-12 15:47 | 三浦一族

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