ゆる鎌さんぽ〜義時さん供養〜
楽しかったご案内の日記にお付き合いありがとうございました。
5問のクイズは解けたでしょうか?
答えあわせです。
1問目
新編相模国風土記稿(1841)には、鶴岡八幡宮大石段の西側に
銀杏の老樹あり東側に梛樹あり と書かれています。
今も目立たないですが有りますので探してみましょう。
梛(なぎ)はとても珍しい樹木で、広葉樹のような楕円状の葉の形を
していますが、実は針葉樹なのです。葉脈が縦方向のみにあるため
縦方向に引っ張ると容易に切る事が出来ません。「切れない」とゆう
事で夫婦円満や縁結びのお守りとして使われてます。
私達になじみ深いのは、熱海伊豆山神社の御神木のなぎの木ですね。
政子さまも、梛の葉をお守りにしていたと伝わっています。
伊豆の国市の蛭ケ小島の説明板に素敵な文章があるので紹介します。
『近世中期の投節の一つ
こんどござらば持て来てたもれ伊豆の小山のなぎの葉を
「今度おいでになる時には伊豆の小山のなぎの葉を持って来てくださいね」
という願いのうちに「それをお守りにしたいから」との意が込められています。
女の方から男に言った言葉です。頼朝と政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就
したのですから梛の葉は当時の娘たちの憧れであり願いであった事でしょう。』
【問題】梛(なぎ)には別名がいくつか有りますが、そのうちの一つは次の内どれ?
1 船木 (竹の葉のように笹舟が作れるから)
2 海神様(梛(なぎ)という名は凪(なぎ)に通じ漁師や船乗りの
お守りとされた)
3 鎧守 (梛は熊野の御神木、その葉は金剛童子の変化身と考えられ
護符として戦場で兜や鎧につけた)
4 弁慶泣かせ (力持ちが引っ張ってもなかなか切れないことから)
答え:
4番 弁慶泣かせ ただしそれぞれの( )内のことは全て本当の事です。
伊豆の国市の真珠院の八重姫御堂の傍にも梛の巨木があります。
今回のコースにも梛の木はありましたね。頼朝のお墓にも覚園寺にもありました。見た目はあまり特徴がないので気がつきにくいです。それにしても弁慶の泣き所と言い、弁慶泣かせと言い、どれだけ弁慶は泣かされているんでしょうか??
2問目 東平太重胤実朝の代に「無双の近侍」と呼ばれた近習州。弓の名手である上に 和歌をたしなみ、共通の教養を通じてその信頼は殊に篤かった。さて、この東重胤、幕府の許しを得て下総国に一時帰国をした。8月に帰ると言っていたのに9月になっても帰って来ない。実朝は和歌を詠んで帰って来るよう伝えた。 それでも鎌倉に姿を見せない。怒った実朝はもう帰って来なくていいと『籠居』を命じた。
遅れて帰って来た重胤は許しを請うたが実朝の怒りは収まらない。困った重胤は義時の屋敷に相談しに来たそうです。義時は「こんな事は宮仕えにはいつもの事です。歌でも献じれば、ご機嫌は直るでしょう。」とアドバイスをしました。その場で書いた重胤の和歌を詠んだ義時は感じ入り、すぐさま御所に行き実朝に会いました。 少し不機嫌そうな実朝。 目線を合わせず、すっと手紙を差し出す義時。 義時 「重胤が悲しんでおります。」 それを無造作に手に取り和歌を読む実朝。 実朝、不機嫌な顔はたちまち崩れ、泣き顔のような笑顔になる。 実朝 「重胤を、重胤をすぐに連れてまいれ!」まるでドラマのようなシーンの後、重胤呼び出した実朝は「片土冬気、枯野眺望鷹狩、雪後朝第事」をいろいろ尋ね数刻を過ごしたようです。
義時が御前から退出する際、重胤は御所の庭に義時を送ると手を合わせて感謝し子々孫々まで仕えることを誓ったそうです。
【問題】 実朝が重胤に早く帰参するよう催促するために詠んだ和歌は次のうちどれ? 1 春霞 たつたの山の桜花 おぼつかなきを知る人のなさ 2 君が行き 日長くなりぬ山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ 3 いま来むと たのめし人は 見えなくに 秋かせ寒み 雁は来にけり 4 「この味がいいね」と佐殿が言ったから 10月13日は 鮭とば記念日
一族重胤のお父さんの東胤頼も、1180年、源頼朝が、今の市川市鬼越辺りで日が暮れて
行く道さえ分からなくなった時に「小夜深く 鬼のみま草踏み越えて行へ事問う真間の浦人」と詠んで頼朝に献じたそうです。教養を身につけた一族だったんですね。
答え:3番 いま来むと たのめし人は 見えなくに 秋かせ寒み 雁は来にけり
1は大河ドラマで実朝が泰時に送った歌2は万葉集 磐之媛命(いわのひめのみこと)の恋の歌4は1190年10月13日、京都上洛のおり、佐々木盛綱が献上した鮭の干物を食べた頼朝が『この味良いね♡』と言ったのは本当ですが、実朝や盛綱がこの事を歌にしたり記念日にはしていません(笑)
3問目1192年11月25日永福寺の落慶式が行われました。取り仕切りは大江広元が行いました。鎌倉幕府あげての大行事ですから朝から上へ下への大騒ぎです。義時もドラマのごとく走り回っていた事でしょう。午後からは、先陣、後陣つけての大行列で二階堂の永福寺に向かう事になってます。
【問題】こんな大変な時に、午前中大事件が起きてしまいます。それは次のうちどれ?
1 永福寺の庭を設計した、阿波の阿闍梨静空の弟子、僧静玄が やっぱりこれじゃダメだと石の置換えを要求して来た。
2 熊谷次郎直実が領地の境界の裁判中、ブチ切れて、自ら髻を 切って逃走してしまった。
3 勅使河原三郎有直が、今日納めるはずの調度品を落として ブッ壊してしまった。 4 導師の法務大僧正公顕がブっ倒れてしまった。文覚が関係 しているらしい。
答え:2番 口下手な熊谷直実が口ごもって何を言っているかわからないので頼朝は質問ぜめにしました。これにブチ切れたようです。一方、ブチ切れられた頼朝は、『こんなのもう嫌じゃ!三善!お前がやれ!』と、言いそれからは裁判は三善康信が仕切るようになったそうです。
1 静玄は庭の設計を頼朝と話し合いながらしたので『ダメ』と言える立場ではありませんでした。2 勅使河原有尚は将軍家の近習として無事調度品を奉納していました。3 導師公顕も何事もなく落慶供養をやり遂げました。
4問目鎌倉で椿と言えば英勝寺と覚園寺ですよね。両寺とも鎌倉市天然記念物に指定されてる椿です。英勝寺は『侘助』、では覚園寺は何?
1 太郎庵 (茶人 高田太郎庵が好んだ事から名が付いた) 2 黒椿 (黒地蔵の裏手に自生していた事から名が付いた) 3 京雅 (三寅が鎌倉に下って来た時に持ってきた) 4 菱唐糸 (唐糸伝説の云われがある)答え:1太郎庵
ちなみに他の3種も実在する品種です。
「侘助」は千利休の下男の庭男の名前。彼はこの花を丹精こめて育てていたそうです。
5問目
宝戒寺には聖徳太子堂が有ります。
では、 聖徳太子は何の神様?
1 仏教の神様 (聖徳太子は救世観音の生まれ変わりで仏教を広め るために生まれた) 2 財宝の神様 (10人の話を同時に聞きとった事から、多聞天と 同一視された) 3 子育ての神様(鎌倉時代2歳の聖徳太子像が多く作られた) 4 建築の神様 (仏教を広める中で多くの造寺、造仏を行ったから)
答え:4番 建築の神様正確には職人の祖神鎌倉時代、聖徳太子は仏教の祖として崇められました。法然も親鸞も一編上人もそしてあの日蓮でさえも『法華経』を日本にもたらした太子は偉いと崇めました。お釈迦様がなくなった瞬間、2歳だった聖徳太子は西に向かって手を合わせ、『南無仏』『南無仏』と2回唱えたそうです。太子の2歳像は本当に沢山作られたそうです。
宝戒寺の本堂の中にも2歳の聖徳太子がいます。目立たないけど探してみましょう^^ **********************************いかがでしたか?ちょっとしたエピソードを知っているとまた鎌倉を歩いていてもちょっと違う楽しみ方が出来ますね^^